兄と弟とヴァイオリン(7)−獄中からの手紙 

1929年(昭和4年)、多喜二は『蟹工船』を発表した。

「描写の生々と新しい点感心しました」と、志賀直哉も評価する傑作であった。

この作品で作家としての地歩を固めた多喜二だが、同年、『中央公論』に発表した『不在地主』が原因で銀行を解雇されてしまう。

翌年春、東京へ。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。

1930年8月に治安維持法違反で起訴、豊多摩刑務所に翌年1月まで収容された。

1930年10月24日、刑務所内から斎藤次郎宛に出した手紙の中で多喜二は、三吾がヴァイオリニストとしての自らの将来を切り開くことにあまりに消極的で、「ズルズルの日和待ち」の状態にあることを嘆く。

<<それから、東京にジンバリストが来たそうだね。三吾がそれをききに行ったそうでないか。若しそうだとすれば、おそらくぼく等が聞き得る最大の最高のヴァイオロニストをきけたのだから、三吾は、その感想を早速ぼくのところへ書き送るべきだったのだ。

蓄音機ではなくて、その本物をきいて、さて自分自身の才能とくらべてみることが必要ではないか。ドンドン(何時か三吾がしたように)ジンバリストの楽屋へ入って行って、自分の力をみて貰うことはちっとも遠慮すべきでないと思う。>>(*注)

傾倒する志賀直哉に積極的に手紙を書き、志賀のことなら何でも知りたいと、小樽に来た里見とんを「一人占めして志賀直哉のことを一生懸命聞き出そう」とさえした多喜二。

「弟よ、ジンバリストのレッスンを受けるために、あらゆる努力をせよ!」

獄中から、兄は弟を叱咤するのであった。

兄と弟とヴァイオリン(6)−ジンバリストと志賀直哉 

多喜二は音楽が好きで、楽譜も読め、よく歌を歌った。

声も良く、時々ふざけて藤原義江の真似をしていたという。(*注1)

クラシック音楽にも当然詳しかった。

ヴァイオリニストを文学者に喩えた、こんな興味深い記述が、日記にある。

<<四日は図書館主催のレコードの会へ行った。「チゴイネルワイゼン」をひいたハイフェッツにびっくりした。誰だって足元にも及ぶまい、そういう気がした。ハイフェッツを里見とんとすれば、ジンバリストは志賀直哉だ。>>(*注2)

里見も志賀も、「白樺派」の代表的な小説家である。プロレタリア文学を志向する多喜二とは、文学上の立場は異なるが、多喜二は志賀を師と仰ぎ、1931年には志賀邸を訪れている。

「俺は小説家として志賀をめざす。お前はヴァイオリニストとしてジンバリストをめざせ。」 そう三吾に語っているようにも思える。


(*注1)小笠原克著『小林多喜二の周圏』(翰林書房)所収「座談会 小林多喜二の思い出」より

(*注2)『日記』1926年12月5日(『小林多喜ニ全集』)

兄と弟とヴァイオリン(5)−練習で出す音 

多喜二は、弟や妹に荒々しい言葉を使ったことはなかった。何でも静かに言って聞かせる、優しい兄であった。

<<けどね、三吾がね、

「母さん、おれ、たった一度だけあんちゃんに叱られた」

と、わだしに言って聞かせたことがあった。それはね、三吾のバイオリンがかなり上手になった頃の話だけどね。いつものとおり、茶の間で三吾がバイオリンの練習をしていた。そこへ、多喜二が外から帰って来た。その多喜二が、

「三吾、そこのところ、そんな音色でいいのか?」

って、聞き咎めたんだって、三吾は明るい子で、

「あ、いいんだ、いいんだ。本番の時はちゃんといい音色を出すから」

って答えたんだって。すると、怒ったことのない多喜二が顔色を変えて怒った。今まで聞いたこともない大声で、

「三吾! 練習で出せない音色が、どうして本番の時に出せる!? そんな態度なら、バイオリンをやめてしまえ!」

って、怒鳴ったんだって。怒鳴られて三吾はふるえ上がった。そして、人が聞いていようがいまいが、バイオリンを手にしたなら、本当に真剣に弾かなければ、音楽に対して失礼なのだと、身に沁みて思ったっていうの。>>

(三浦綾子『母』(角川文庫)P59〜60より)

多喜二は伯父の援助で高等商業学校を卒業した。だが、その援助が弟にまで得られるはずはなく、三吾は中学への進学を諦めざるをえなかった。三吾には将来ヴァイオリンで身を立てさせたい、と多喜二は強く心に定めていたのであろう。

父、末松の死後、パン屋の奉公に出ていた三吾が家に戻り、店を受け持つことになった。

店ではパン以外にも大福餅などを売っており、毎朝、餅をひと臼ついておく必要があったが、多喜二は銀行に勤めに出る前に、必ず自ら餅をついたという。

多喜二はこう言った。

「三吾の手はバイオリンを弾く手だ。重い杵など持って餅をついたりしたら、勘が狂う。」

兄と弟とヴァイオリン(4)−初舞台 

弟の初舞台の翌日の日記より。

多喜ニの心情は、おけいこニストの親の心情そのものだ。

<<昨夜は三吾の初舞台だった。三番目に出ると云うので、もう二番目あたりは何を聞いているのか分からなかった。胸がときうってしようがなかった。然しとにかく(若いというハンディがあったのでかえって得をしたが)成功だった。皆、「天才だ」と云ってくれた。>>(*注1)

<<弟の東洋音楽学校行きも、中学卒業程度の資格がないために駄目になりそうだ。弟の失望を見ていて気の毒そうだ。あれだけのヴァイオリンの腕があるのにと思うと淋しくなる。それで兎に角、東洋音楽学校へもう一度照会してみることにする。弟は「いい」と云うけれど。

さっき下りて行くと、弟はもう眠っていたが「面倒らしい」「駄目だろう」とか、寝言を云っていたと、妹とタキちゃんが云っていた。

どれだけ、それが頭にあるのか、と思うと、弟がますます気の毒になってくる。何とかしてやりたいものだ。>>(*注2)

東洋音楽学校は、東京音楽大学の前身。

進学を断念した弟の三吾は、結局4年後の1930年に上京し、ヴァイオリニストで当時新進の作曲家でもあった橋本國彦に師事することになる。

その時、兄は逮捕され獄中にあった。


*注1)『日記』1926年6月13日(『小林多喜ニ全集』より)

*注2)『日記』1926年7月27日(同上)


兄と弟とヴァイオリン(3)−小林家にヴァイオリンが来た日 

多喜二は伯父から学費の支援を受け、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業後、北海道拓殖銀行に就職した。初任給は70円。

<<多喜二は、初給料をもらったその日、バイオリンをかついで帰って来た。

みんな飛び上がって喜んだ。三吾はバイオリンを抱きしめて、頬ずりをして喜んだ。それば見て末松つぁんは、肉の落ちた肩をふるわせて泣いていたっけ。

あん時のうれしかったこと。

(ああ、生きていてよかった)

わだしは、しみじみと思った。わだしらは貧乏かも知れん。亭主の体は弱いかも知れん。人から見れば、何の値もない一家かも知れん。しかし人間生きていれば、こんなうれしい目にも遭える。そんな喜びはそのあとにも何度もあった。むろん、それを打ち破るあの多喜二の辛い目にも遭ったども・・・・・・。とにかく、毎日明るく楽しく暮らした家だった。

そうそう、あんたさん、多喜二はバイオリンを買って来ただけではない。ある学校の音楽の先生に頼んで、三吾のバイオリンの先生になってくれるように、ちゃんと頼んで来てくれた。それを聞いた時うれしくてね。三吾が初めてバイオリンを習いに行く日は、わだしは赤飯を炊いて祝ってやった。だってさ、それは三吾の入学式の日だもんね。三吾が、ぴょこぴょこ踊るように、バイオリンかついで行く姿を、末松つぁんとわだしは、いつまでも見送っていたっけ。>>

(三浦綾子『母』(角川文庫)P58〜59より)

多喜二は20歳、三吾は14歳。

兄は、初任給で弟にヴァイオリンを買い、先生まで探してくる。兄の優しさに、弟はバイオリンを抱きしめて喜び、初レッスンの日には踊るようにうきうきする。父はヴァイオリンが来た日に肩を震わせて泣き、母は初レッスンを赤飯を炊いて祝ってやる。

多喜二だけではない。父も母も、ヴァイオリンを習いたいという弟のために、何とかしてやりたいと心をくだく。念願が叶うと、家族皆で喜び合う。

ヴァイオリンのおけいこのために、家族皆が気持ちをひとつに通わせる。貧しい家庭であっても、そこには明るく、楽しい、前向きのエネルギーが満ちている。

『母』執筆のための取材で、著者三浦綾子の心を最初に捉えたのは、「多喜二の家庭があまりにも明るくあまりにも優しさに満ちていたことだった」という。

多喜二の作品とはまた異なった地点から、彼の生い立ちとその家族の在りようは、現代の我々の心を打つ。

兄と弟とヴァイオリン(2)−才能の芽生え 

小林多喜二の弟、小林三吾は、戦後、東京交響楽団の第1ヴァイオリン奏者となった。

貧しい家庭の中にあって、ヴァイオリンの才能に恵まれた弟。そんな弟を、兄は深く理解し、暖かい愛情で包み、励まし、あらゆる助力を惜しまなかった。

三浦綾子の小説『母』は、小林多喜二の母セキが、秋田なまりの方言で、多喜二の生涯を回想する形式で書かれている。

そこに、弟を立派なヴァイオリニストに育てたいと願う多喜ニの姿が、切々と描かれている場面がある。

弟、三吾が初めてヴァイオリンを手にした日。

<<ある時、三吾が、水産学校の先生が弾いているバイオリンの音を聞いた。あんまりきれいな音で、ぶったまげた。そして、弾いている人の手を、一生懸命見てたんだべな。あんまり一生懸命見ているんで、その先生が憐れに思ったんだべな。ちょっくらさわらせてやろうと、

「ちょっと弾いてみるか」

と貸してくれた。一緒にいた多喜ニは、(バイオリンなんか持たされても、弾けるわけはない)そう思って見ていたんだって。

ところが、何ちゅうことかね、「サクラ サクラ」を、一曲弾いてしまった。むろん、少しはつっかかったども、とにかく弾けた。そこでそこにいた者たちがぶったまげて、大騒ぎになった。

「天才だ」

「凄い天才だ」

という噂が、ばっとひろがった。

末松つぁん(*注:夫。多喜ニ・三吾の父)がその話ば聞いて、何か思案していた。そしてある日古道具屋に行ってみた。中古なら安いべと思ったが、末松つぁんには高くて手が出んかった。そのことを、末松つぁんは、そっとわだしに聞かせてくれたの。わだしは何げなく多喜ニに、

「お父っつぁんは、バイオリン買いに、古道具屋に行ったんだと。だども高くて買えんかったんだと」

って、言って聞かせた。多喜ニはそん時、

「ふーん」

と言ったきりだったから、心にとめていたとは思えんかった。>>

(三浦綾子『母』(角川文庫)P57〜58より)


兄と弟とヴァイオリン(1)−シゲティのカデンツァ 

1932年(昭和7年)8月21日、ある作家が家族に宛てた手紙。

<<永い間便りせず、心配していたろう。何処にいても元気だから安心してくれ。おっ母さんがどうしているか、そればかり気掛かりだ。まァ永生きしていて下さい。

四月以来一銭の収入もなく困っていたろうと思う。三月頃約束して置いた小説を中央公論に送っておいたから、金が入ると思う。入ったら今迄の借金を払ったり、妹の学費を送ってやったり、家賃を払ってくれ。それから今まで書いてある小説を改造社とか、中央公論社に頼んで本にしてもらったらいい。・・・

又しばらくごぶさたすることになるが、手紙が行かなくても決して心配しない方がいい。

三吾のバイオリンも早く一人前になって、お母さんを安心させなくてはならぬ。では。>>

作家は、その年の4月以来、地下活動に入っていた。

身に迫る危険にも関わらず、手紙の文面は母や弟・妹への優しい思いにあふれている。

友人と道を歩いていても、ふと立ち止まって、「今頃、お母さんはどうしているのだろう?」と呟く、28歳の家族思いの若者であった。

彼より6歳年下の弟の三吾は、ヴァイオリニストになることを志していた。

小樽でパン屋兼駄菓子屋を営む貧しい家庭に育った2人。店の他はたった2間しかない家に、両親と二男三女の7人が暮らした。

弟がバイオリンを弾く傍ら、兄は本を読んだり、小説を書いたりしていた。

兄はただの一度も、弟のバイオリンを「うるさい」と言ったことはない。弟がつっかかり、つっかかり、同じ所を弾いていても、眉根も寄せなかった。

この手紙から3ヶ月余り後、兄弟は日比谷公会堂の客席で隣り合わせに座る。潜行中の兄が弟のためにコンサートの切符を手に入れ、送ったのだ。

ヘートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲。

独奏は、1931年に続く2度目の来日の、ヨーゼフ・シゲティ。

近衛秀麿指揮、新交響楽団(N響の前身)との共演であった。

情念を揺さぶり、音楽の真髄に迫るシゲティのベートーヴェン。

第1楽章のカデンツァが終り、オーケストラが演奏に入るタイミングで、弟はふと傍らの兄を見る。

兄の眼には涙が光っていた。

それから2ヶ月後、兄は帰らぬ人となる。

1933年2月20日、特別高等警察に逮捕された小林多喜ニは、築地署内での拷問の末、29年の短い生涯を閉じた。


*このシリーズは敬称を略します。

*このシリーズは以下の文献・ブログを参考にさせて頂きました。

・『小林多喜ニ全集』(新日本出版社)

・窪川いね子の手記(1933年(昭和8年)4月)

・三浦綾子『母』(角川文庫)

Shima教授の生活と意見

未来の小林多喜ニ

白樺文学館 多喜ニライブラリー

銀座一丁目新聞 追悼録(10)


モスクワの思い出(5)−モスクワは涙を信じる 

ファイナル最終日、チャイコフスキーの協奏曲を演奏する彼女の眼に、涙が浮かんでいるように見えたのは錯覚だろうか。

彼女は、常にエリートとしての道を歩んできた。その足跡は、一見、順風満帆に思われるが、栄光の陰で、実力者故に人知れず流してきた涙もあった。

それは、16年ぶりの快挙だった。

予選はクライスラー:前奏曲とアレグロ、本選はモーツァルト:協奏曲第3番第1楽章。

この年、1996年の「第50回全日本学生音楽コンクール」全国大会・ヴァイオリン部門・小学校の部を制したのは、大阪・豊中市の小学4年生であった。

1980年に優勝した二村英仁以来の、小学校の部の最小学年(小4)による全国大会制覇であった。

1969年第23回大会の加藤知子は小6、73年第27回大会の千住真理子は小5、77年第31回大会の竹澤恭子は小5、79年第33回大会の戸田弥生は小6、94年第48回大会の庄司紗矢香は小6で、それぞれ全国大会に優勝している。

技量や心身の発達度合い、とりわけ分数からフルサイズへの楽器の転換時期が絡み、明らかに高学年が有利と思われるヴァイオリン部門小学校の部での、最小学年による優勝がいかに至難の技であるか。

つまり、最小学年にして、その技術と音楽性と音量によって、並み居る上級学年の「お兄さん」「お姉さん」を凌駕し、全国制覇を成し遂げる才能がいかに類稀なものであるのか。

この快挙以降10年間、現在に至るまで、ヴァイオリン部門全国大会での小4の優勝者は一人も出ていない。

「学生音コン」最年少優勝から2年後、今度は海外コンクールに挑む。

1998年、「メニューイン国際」ジュニア部門に最年少の11歳で入賞。

2000年、ドロシー・ディレイの指導を受けるべく、ジュリアード音楽院プレカレッジに留学。しかし、すでに晩年にあったディレイからは、十分な薫陶を受けることが叶わなかった。

それでも2000年には、米国のヤング・コンサート・アーティスツの国際オーディション(54カ国から422人が参加)で第1位を受賞。アメリカ各地でリサイタルを行う。メジャー・オケとの共演など国際的なキャリアも重ね、彼女はすでに15歳にしてソリストとして一定の評価を確立するに至った。

しかし、ヴァイオリニストとしての精進、技術と表現への飽くなき追求は、彼女の中で決して止むことはなかった。

多くのコンテスタントが目指すもの、つまり入賞実績を国際舞台での活躍の足がかりにする目的だけなら、彼女にとってコンクールを受ける意味はあまりなかった。

むしろその地位から言えば、早々に結果が出ない場合は、リスクが伴うことは目に見えている。どのような実力者にとっても、やはりコンクールでは何が起こるか分からない。一回性の魔物である。

しかし彼女は、コンクールへの挑戦をやめなかった。

「01年ヴィエニャフスキ国際」では第4位。2002年に帰国後は、桐朋女子高校の特待生となる。その後、周囲の反対を押し切ってチューリッヒへ留学。

そこで幾多の国際コンクール優勝者を輩出してきたザハール・ブロンの指導を受けることになる。

そして「04年モンテカルロ・ヴァイオリン・マスターズ」と「04年オイストラフ国際」で優勝。

ところがメジャー・コンクール制覇への第一歩、満を持して臨んだはずの「06年モントリオール国際」では、第5位と涙を呑むことになる。

1位を獲りに行ってその通り目的を成就するというのは、いかにも至難であり、逆に達成出来なかった時のショックは相当に大きい。しかし、結果が出るまで、とにかくコンクールを受けることをやめない−そう心の中で誓ったのだろうか。

あえてコンクールにチャレンジし続ける。 栄誉や実績以外のものを獲得するために。

07年、「第13回チャイコフスキー国際コンクール」。

神尾真由子は、まるでコンクールであることを感じさせず、躍動した。

彼女はもしかしたらコンクールへの挑戦を、評価という物差しを越える何物かを獲得するための試練の道だと思い定めていたのかもしれない。

流した涙は、決して無駄ではなかった。

「これからも自分が自分であり続けつつ、偉大な奏者になるよう最善を尽くしたい」
(神尾真由子〜記者会見の言葉より)


*このシリーズは敬称を省略しています。