「音楽コンクール」に見る審査方法の変遷−順位投票方式から得点方式へ・1958年(2) 

この30点満点の「得点方式」だが、次のような注釈がつけられている。

「出場者の得た平均点より五点以上離れた採点をした場合は自動的に平均点プラス(あるいはマイナス)五点のところまで修正されるという規約が定められている。」(前出「毎日新聞」)

平均点が20点となる出場者に28点をつけた審査員がいた場合は、その点は25点に下げられるのである。どの審査員からもまんべんなく評点を得た出場者が有利になる方式で、現在の「全日本学生音楽コンクール」の規定書で公示されている採点方式(各一人の最高点・最低点カットによる平均点方式)と基本的に同じ思想である。

この年のヴァイオリン部門では、一人の審査員の採点について上記に基づく修正が入った。

5人の出場者に対してその審査員がつけた採点は「10点・15点・15点・5点・7点」であった。一方、平均点は「25点・25点・24点・21点・25点」であり、かなりの採点修正があった。

標準的な演奏をした場合の基準点レベルについて、審査員間でのすり合わせがないままの得点方式導入だったと思われる。

翌年からは採点修正が行われた形跡はなく、基準点レベルに関する一定のコンセンサスが当事者間で成立したのであろう。

○1958年「第27回音楽コンクール」入賞者 

第1位 建部洋子氏(当時16歳。その後、ギルバート・ヨーコ・タケベ。NYフィル第1ヴァイオリン。マンハッタン音大教授。指揮者アラン・ギルバート氏の母。五嶋龍氏の師。)

第2位 宗知忠氏氏(=宗倫匡氏。当時15歳。59年「第28回音楽コンクール」第1位、63年ジュネーブ国際第2位、64年パガニーニ国際第4位、67年ロン=ティボー国際第5位。大阪音大教授。)

第3位 石井志都子氏(当時16歳。55年「第24回音楽コンクール」第2位−13歳。59年・61年ロン=ティボー国際第3位、63年パガニーニ国際第3位。桐朋学園大教授。)

「音楽コンクール」に見る審査方法の変遷−順位投票方式から得点方式へ・1958年(1) 

1958年(昭和33年)「第27回音楽コンクール」(現在の「日本音楽コンクール」)の本選会の日はあいにくの雨模様となった。

ヴァイオリン部門の出場者は雨天の湿気の影響からか、調弦にひどく苦しんだ。

本選の審査結果を特集した「毎日新聞」(1958年11月4日付東京本社版)は、「“狂った調弦”−雨天の影響もあったが」との見出しで、コンクール審査委員の黒柳守綱氏(*注)のヴァイオリン部門に関する審査評を掲載している。

「あれではダブルストップの早いパッセージなど、相当に勉強してあっても正確な演奏は不可能に近い。途中で直そうとした人もあったが十分ではなく、満点が出なかった原因の一つになった。(中略)外来の大家は、たとえ雨天でもあのようには狂わさないのだから、それぞれよく研究してほしい。」

この年、「音楽コンクール」の審査方法は従来の「順位投票方式」から「得点方式」に変更されている。

前年までは、各審査員が記名で1位〜3位に推す出場者に投票し、得票数の多さで順位を決定した。

それがこの年から変更になり、各審査員が各出場者を30点満点で採点し、総合点で順位を決定する「得点方式」となったのである。

これは現在の「日本音楽コンクール」・「全日本学生音楽コンクール」での25点満点による採点方法に似ている。

*注)黒柳守綱氏(1908〜1983年)は女優の黒柳徹子氏の父。戦前は新交響楽団(現在のN響)、戦後は東京交響楽団のコンサート・マスターを歴任した。現在、「日本音楽コンクール」弦楽器部門においてコンクール委員会で選定された本選出場者に対し、黒柳守綱基金より「黒柳賞」が贈られている。

少年と弓(4) 

1984年第53回日本音楽コンクール・ヴァイオリン部門は本選出場9名中、最年少の15歳、東京都杉並区立大宮中学3年生の奥村智洋が第1位。本選出場者中、最も印象的な演奏に贈られる「増沢賞」、及び「レウカディア賞」「黒柳賞」も受賞した。

奥村は、その日本音コン史上でも語り草となっている名演バルトーク・ヴァイオリン協奏曲第2番で、「超ど級の演奏」「10年に1人の逸材」との圧倒的な評価を得た。

演奏中突然のアクシデントに見舞われた彼を自らの弓で救ったのは、同じ本選出場者のライバルである、東京芸術大学3年生、21歳の松原勝也。

奥村智洋はその後、高校を卒業して米・ジュリアード音楽院に入学。92年カール・フレッシュ国際ヴァイオリンコンクールに入賞。93年ナウムバーグ国際ヴァイオリンコンクールに優勝し、全米各地でオーケストラと共演。94年リンカーン・センターのアリス・タリーホールで行われたリサイタルは、特にバルトークの演奏について、ニューヨークタイムズ紙上で絶賛された。日本でもN響、読売日響、新日本フィルなど有力オーケストラと数多く共演している。

松原勝也はその後、東京芸術大学を卒業。クライスラー国際ヴァイオリンコンクールに入賞。89〜99年新日本フィルのコンサートマスターを務めた。ソリストとして、新日本フィル、東京フィル、オーケストラ・アンサンブル金沢などと共演。00〜03年「さいたまアーツシアター・クワルテット」、01年からの「第一生命ホール・若手演奏家のためのアドヴェントセミナー&コンサート」など多岐にわたる活動で知られ、最近ではジャズ・ピアニストの山下洋輔とも共演している。現在、東京芸術大学音楽学部助教授。

*「少年と弓」は、第53回日本音楽コンクールで実際にあったエピソードに基づくフィクションです。

少年と弓(3) 

その直後、舞台に現れた少年は、何事もなかったかのように、同様のテンションと完成度で会場をバルトークの世界に引きずり込み、演奏を終えた。弓は完全に少年と一体化していた。

万雷の拍手の中、誰もが少年の勝利を確信した。あのアクシデントがあって演奏が中断したとしても、いや、あのアクシデントがあり、それを乗り越えた演奏であったからこそ、音楽は一層の輝きを増し、会場内の感動は頂点に達していた。

舞台袖に引きあげてきた少年に、青年は手を差し伸べた。「ありがとうございます。」と少年は言った。

ヴァイオリンにしても弓にしても、通常、他人の所有物を借りて弾くということは、よほどのアクシデントでもない限り稀である。コンクールのコンテスタント間ともなれば尚更で、ふつう貸し借りなどできるような状況ではない。

それは舞台袖の係員も、青年も、少年もよく承知していた。それでも尚、あの稀に見る演奏を無駄にしたくないという係員の強い思いが、暗黙の制約を打ち破るとっさの一言の依頼を導き出した。その一言に、これまた、とっさの快諾で応えた青年。そして、その瞬時に交わされた善意のバトンを受けて、見事にショックから立ち直り、稀有の名演を完成させた少年。

3人の中には、ミューズ(音楽の女神)の善き心が棲んでいて、それがこの瞬間に連なり合い、奇跡を起こしたのではないだろうか。

少年と弓(2) 

その係員も、少年にかけるべき言葉を失っていた。いや、言葉をかける気力が完全に失せていた。もはや弓がこの状態では、少年は棄権するしかないだろう。

「間違いなく第1位の演奏だったよ。」「来年がある。めげないで頑張ればいいよ。」いくつか少年にかける言葉を探してみたが、どれも口にできそうになかった。誰もが何もできない、重苦しい数十秒が無為に過ぎていった。

その時、椅子に座った少年と係員のそばを、ひとりの青年が通りかかった。青年は少年の2人前に演奏を終えたコンテスタントだった。手にはヴァイオリンと弓を携えていた。

係員の目はそれに釘付けになった。

−今この瞬間なら・・・間に合う。

そう思うか思わないかのうちに、とっさに青年に声をかけている自分がいた。

「すみません。突然ですが。」

係員は青年が持つ弓を凝視し、確然と言った。

「あなたの弓を彼に貸してあげていただけませんか。」

自らの楽器と弓は自らの身体と一体化している。その身体の一部分を他人に貸す。

しかも、このコンクールという闘いの場で、ライバルに貸す。そんなことができるだろうか。

係員はとっさに出た依頼の言葉を、後悔し始めていた。そんなことは普通できないはずだ。なのに自分は、思い余って、無理な依頼をしてしまった。しかも、この瞬間を逃すまいとした自分の口調は、青年に有無を言わせぬ圧力をかけてしまったはずだ。

ところが、青年は、その依頼に即座に、そして至極自然な様子で反応した。

「あっ、僕の弓ですか。ええ、いいですよ。」

係員は青年の答えに驚いた。

「僕の弓でよければ、どうぞ使って下さい。」

「ありがとうございます。」

もっと多くの言葉をかけるべきが、見つからない。係員はただ、深々と青年に頭を下げた。

「ちょっと僕の弓は固いかもしれませんが」

と言いながら、青年が差し出した弓を、少年は神からの授かり物であるかのように受け取った。

「ありがとうございます。使わせていただきます。」

少年の表情には輝きが戻っていた。授かり物を自分のヴァイオリンの弦にいとおしむように、軽く、やさしく当て、調弦する。

その音で、少年はヴァイオリニストとしての心身を一瞬のうちに取り戻した。

少年と弓(1) 

少年はぼう然自失の状態で、舞台袖にあった椅子にへたりこんだ。

たった今起こった理解不能の突然の出来事に打ちのめされ、顔からは完全に生気が失せているようだった。

舞台袖に控えていた係員たちも少年と同様に打ちのめされ、椅子にうずくまる彼に投げかける視線も、かけるべき言葉も失っていた。

少年は泣いてはいなかった。手にはヴァイオリンと「その弓」。弓と言うにはあまりに無残でいびつな姿。

自らのミスゆえなら悔恨の涙も出る。が、それは明らかに事故としか言いようがなかった。それも音楽の最も美しい瞬間に突然訪れた事故・・・

15歳のその少年が弾くバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番はホールの雰囲気を一変させていた。練り込まれたこの上なき美音、豊穣な技巧と流麗な歌い回しに、観客はこれがコンクールであることを忘れ、少年の演奏に酔いしれていた。おそらくは審査員も。誰もがこの中学3年生の勝利を信じて疑わなかった。

その時、誰も予想しえないあの事故が起こったのだ。

少年の快刀乱麻を断つボウイングをまるであざ笑うかのように、弓の先端のクサビが突然壊れ、吹き飛んでしまったのだ。

その瞬間、会場内からは悲痛な叫び声が起こった。つなぎ留めを失った弓の毛はバラバラと枝垂れ柳のように垂れ下がってしまった。悲鳴の後、今度は凍りついた静寂に会場は支配された。

少年は、はずれたクサビを拾い上げ、ふらふらと舞台袖に引きあげるしかなかった。

あの至高の演奏の途中の出来事・・・。それはミューズ(音楽の女神)の仕業にしてはあまりにも残酷な結末であった。

天才ヴァイオリニスト登場−'94「毎コン」の「歴史的頂点」 

第48回(1994年)「毎コン」東京大会、ヴァイオリン小学生の部は、今年(2005年)に匹敵する124名が予選にエントリーしました。

課題曲は、予選がヘンデル「ヴァイオリンソナタ4番1・2楽章」、本選がベリオ「ヴァイオリン協奏曲7番1楽章」でした。

本選曲のベリオ7番1楽章は、実は第37回(1983年)の予選曲でした。本選曲のハードルが低いと感じ、エントリーしたおけいこニストが多かったと思われます。

この第48回の直近4年間の予選エントリー数は以下の通りです。

第47回(1993年) 113名(本選曲はモーツァルト「ヴァイオリン協奏曲5番1楽章」

第46回(1992年) 88名(本選曲はベリオ「バレエの情景」。2005年と同様ですが、当時は現在ほど「お馴染みの曲」ではなかったのかもしれません。)

第45回(1991年) 98名(本選曲はシュポア「ヴァイオリン協奏曲2番1楽章」

第44回(1990年) 67名(本選曲はヴィエニヤフスキ「ヴァイオリン協奏曲2番1楽章」

ところで、今から11年前のこの第48回東京大会は、「毎コン」史上、記憶されるべき歴史的な大会だったと言っても過言ではありません。

もちろん、それは本選曲のハードルの低さやそれゆえの予選のエントリー数の多さを指してのことではありません。

一体、国分寺市立第六小学校6年に在学していた「彼女」は、この大会でどのようなヘンデルと、そしてベリオを聞かせてくれたのでしょうか。

それは、小学生のコンテスタントの域をはるかに越える、異次元のレベルの演奏だったろうと想像できます。

この年の東京大会と全国大会を、圧倒的な1位で駆け抜けていった「彼女」。

その3年後の1997年、14歳で、ポーランドで開かれた「ヴィエニヤフスキ国際ヴァイオリンコンクール(ジュニア部門)」に優勝。

さらに2年後の1990年には、「パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール」で、日本人としては初めての優勝。若干16歳、同コンクール史上最年少の優勝という金字塔を打ち立てました。

第48回「毎コン」は、現代最高峰の日本人ヴィルトゥオーゾ、庄司紗矢香さんの誕生を目撃した、歴史的な大会でした。