「魔王のスタジオ」(13)〜(24)
(13)隠れ門の発表会
トクダー・コバは「隠れ門下生」の発表会の運営を任されることになった。
「隠れ門下生」(以下、略して「隠れ門」と呼ぶことにする。)の発表会。
その模様は想像するだけでも、怖気(おぞけ)が走るが、本当の門下生の発表会とは完全に切り離され、魔王の成城の自宅スタジオで1年に2回、しめやかに行われることになっていた。
外のホールで催したのでは一般の人に聞かれるかもしれない。ホテルの宴会場もやはりタブーだ。宴会場担当者のホテルマンは、どのように接客上、鍛えられていたとしても、隠れ門たちの演奏を聞いたが最後、「必ず」笑い出すに決まっている。
公衆の目にとまる形でその会が催された場合は、魔王のキャリアにとって取り返しのつかない汚点となることは明らかであった。
だから、ひそかに、自宅スタジオで行うのだ。
トクダー・コバは、次回の隠れ門発表会から、会費を一人3万円から20万円に値上げすることを提案した。魔王は当初からこの発表会の会費は、伴奏代とちょっとした茶話代込みで3万円と比較的良心的に設定していたのだ。
「先生、それでは良心的すぎますよ。天下の魔王の発表会がその会費では、ブランド価値が下がってしまいます。もう少しお金を取りましょう。20万円くらい払っても、全く平気な人たちですよ、彼らは。もちろん、ただ、値上げするだけではいけませんから、次のような企画を考えました。」
トクダー・コバが魔王に示したのは「仮称『サロン・ド・魔王』について」という発表会の企画案であった。
(14)トクダー・コバの才覚
■『サロン・ド・魔王』企画書
・ 隠れ門の発表会は、従来、隠れ門だけが演奏を行っていたが、ここに、2〜3人の優秀な 門下生(きれいどころ)の演奏と魔王先生の演奏を入れることにする。隠れ門とその父兄をいい気分にさせる程度の小品をそれぞれ1曲ずつ披露すれば十分であろう。
・ 発表会後のパーティーを充実させる。フレンチの前菜のケータリングを取って、旬の最高 級の食材(例えば、国産マツタケや、松阪牛霜降り等)を仕入れ、バーベキューなどを行う。ワインもシャトー・マルゴーくらい空けたい。
・ 名称は、発表会ではなく、あくまで「サロン」とする。宮廷貴族のそれを模してドレスコ ードもかなり厳しくし、セレブ感をそそるようにする。
・ パーティー時間中に、出入りの楽器商主催による楽器品評会(実際は売り込み活動)を行 う。ストラドやグァルネリ、ガダニーニを魔王先生が試奏しつつ、隠れ門連中の購入ターゲット銘柄(都内近郊の70〜80平方メートル3LDKクラスの分譲マンション一戸分くらいのお値段。)を多数取り揃え、参加者に自由に試奏・品評してもらう。
「楽器屋からは協賛金が取れますね。単なる発表会ではなく、上等のワインで最高級の食材 を楽しむホームパーティーであるところが、ヒルズ連中の感性にびびっと来るはずです。
そうやっていい気持ちになったところで楽器の品評会をやるのです。魔王先生が試奏して薦めてやれば、イチコロですね。プレッセンダやギヨーム思い切ってガダニーニを買おうなんていう人も現れるかもしれません。
隠れ門の父兄の中にはIT企業経営者や経営幹部もいます。彼らは、J−POP系だったのに最近クラッシックにも触手を伸ばしている新興レーベルの経営者とも親しいんです。門下生のきれいどころを紹介してやれば、彼女たちのCDデビューなんて簡単なのではないでしょうか。
うーん、参加費は隠れ門+父兄1組20万円はちょっと安いかなあ。30万円でもいいか。」
まったく飛んでもない企画力。トクダー・コバの驚くべき才覚!
いいなあ、才覚。井原西鶴。
成功、逃さんよう。世間胸算用。
トクダー・コバの将来が見えてきた。
(15)えっ、魔王が出馬?−前編
幹事長との縁は、3年前。
党の諮問委員会に、民間の有識者の一人として、魔王が委員として招かれた時から始まった。
所属する有名オケの親会社会長が党の古参幹部と親しく、ぜひクラシック音楽の演奏現場から委員を、というその幹部の要請に応えて、オケのコンマスの魔王に諮問委員の白羽の矢が立ったというわけである。
嫌がる魔王の肩をたたきながら、ハバナの葉巻が好きなその親会社会長はこう言った。「うまく行けば、君もやがてヴァイオリニストにして国会議員だよ」と。
そんなことはつゆほども考えたことのない、根っからの音楽家である魔王。オケのリーダーであるコンマスとはいっても、楽器の音回しはともかく、政治の根回しなど不得手。
地方ホールのための実質ドサ回り公演は慣れてはいる。が、それと、選挙のためのどぶ板講演は、全く勝手が違うに決まっているし、そもそも人前でしゃべるくらいなら、ヴァイオリン弾かせろと、声を大にして叫び出したくなるくらいの、根っからの話下手なのだ。
しかしながら断わることもできず、引き受けてしまった。
その諮問委員会の座長を務めていたのが、党の実力者で、熟達の権力屋の異名を取るオタベであった。
オタベは座長といっても名ばかり。党内の調整やら、国会対策やらで忙しく委員会の会議があっても、議事を副座長に任せて、途中で必ず中座した。
いつも、「いや、すまん」「いや、すまん」と言って、会議を中座するのである。
しかしながら、オタベは会議などに出なくとも、そのあざとい政治家としての魅力を周囲に嫌というほどふりまき、各界出身の委員達を簡単にろう絡していった。
その人脈作りの手練手管には誰しもが感心し、委員達はいつしかオタベのことを「偉大なる、いや、すまん。」と呼ぶようになった。
魔王も行きたくもないが、料亭にクラブにゴルフにと引き回されるうちこのオタベとの関係から抜けられなくなってしまった。そして、1年前にこのオタベが、見事に党幹事長に抜擢されたのである。
親会社会長のあの言葉が魔王の脳裏に鳴り響く。
ひょっとして、いつか自分が比例代表で出馬することになるのか・・・
(16)えっ、魔王が出馬?−後編
俳優、落語家、漫才師、スケート選手、スキー選手、プロレスラー・・・
ヴァイオリニストの自分がその列に加わる。別の意味で「先生」などと呼ばれる。まんざらでもないなあ、と魔王が本気で期待を持ち始めたとき、ある電話がかかってきた。
「もしもし、魔王先生でいらっしゃいますか。」
「はい、そうですが。」
「私、幹事長オタベの第一秘書でございますが。」
「お世話になっております。」
「本日は、オタベから折り入ってお願いがございまして、お電話させていただきました。」
「はい。何でしょうか。」
「実は、次の参議院議員選挙で・・・」
「(きたか!)選挙ですか。選挙。いや私なんか、そんな、そんな。」
「はい?」
「いや、もう。演説なんてできないですしね。立ってりゃいい、なんて言われても。あの、その。握手するでしょ、握手。」
「はあ・・・」
「選挙運動では、1日に何百人もの有権者と握手するでしょ。あれは、いけないなあ。ヴァイオリニストの手には、あれはよくないです。」
「あ、いや。魔王先生。」
「いや、恥ずかしいなあ、選挙カーに乗るなんて。嫌だなあ、立ち会い演説会は・・・。」
「あの魔王先生。先生の選挙のことではありませんが。」
「えっ?」
「先生の選挙ではなくてですね・・・。」
「はあ・・・」
「実は、次の選挙でオタベの次男が立候補するんですが・・・」
「はい。」
「スキムラというんですが。ここの長男が小学校4年生でして。」
「はい。」
「実は、ヴァイオリンを習っております。」
「ヴァイオリンを。」
「はい。どうやら今の先生が合わないらしくて。できれば魔王先生のお弟子の仲間入りをさせていただければ、とオタベが申しております。」
「あっ、私の門下に。」
「よろしいでしょうか? オタベはああ見えても、孫のことになると単なる優 しいおじいちゃんなんです。入門させていただければ、オタベも殊のほか喜ぶと思います。」
「いいですよ。わかりました。」
完全に思惑はずれ。
まあ、仕方がない。これも何かの縁。国会議事堂でヴァイオリンを演奏する夢はまだまだ先のようだが、オタベ幹事長の頼みとあれば、お安いご用だ。
魔王は入門を無条件でOKした。
(17)ウルフガングの囁き
オタベの次男は不肖の息子である。東大→高級官僚→衆議院議員のゴールドコースを歩んだ長男とは正反対に、次男は遊び呆けていた私大在学中に訪れたオーストラリアのゴールドコーストで、語学研修の傍らボランティア活動に励む日本人女性と出会い、そのまま現地で結婚。ひとり娘だったため、養子に入ってスキムラ姓に改姓した。もちろんオタベがそれを許すはずもなく、勘当同然に。
帰国後、サラリーマンになったスキムラがオタベ家への出入りを許されるようになったのは、孫のスキムラ・ショウゾウのおかげであった。長男夫妻に子供はなく、ショウゾウは優しいオタベ爺ちゃんの寵愛を独り占めした。
スキムラの参議院議員出馬も、ショウゾウのおかげであった。
平社員スキムラは、他の隠れ門父兄に比べ、可処分所得は明らかに少ないはずである。ドクター・コバことコバちゃんは、スキムラからはバカ高なレッスン料は取らないように魔王に進言した。魔王はコバちゃんの言う通りにした。
スキムラの息子ショウゾウは、このようにして爺ちゃんの七光りで、実力もお金もないのに魔王門下にスルリと入門することになった。「サロン・ド・魔王」への参加も実費だけの徴収という特別待遇で。
「スキムラさんが次回の参議院選でめでたく当選し、政治家にヒラリと転身すれば、魔王先生にとって政界進出の足がかりがまた一つ増えることになりますよ。政治家になるには、人脈を網の目のように張り巡らせることが重要です。」
コバちゃんは魔王の肩を抱きながら、耳元にアダージョな(緩やかな)優しい言葉を吹きつけてやった。
今日は、モーツァルト・イヤーの記念コンサートで自らが独奏することになっているヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」の練習をしていた魔王。1音1音に集中し、あるべき発音について考えているうちに、いつものように「行ってしまった」のである。
魔王は自らの練習中は、スタジオの全体照明を落とし、集中のために自分にスポットライトをあてる。今、そのスポットライトは、床にへたりこんで、コバちゃんにしなだれかかっている情けない魔王の姿を鮮やかに照らしていた。
魔王は陶然とした顔で、うなされるように言った。
「ウルフガングの音楽を奏でるためには、各音をすっぽり収め、響きを端正に整える『発音の容器』が必要なんだ。そうだ、小林君、わかるかね。『容器』だ。『容器』を自分の体に備え付けることが必要なんだよ。」
一種異様な妖気をたたえて、容器を語る魔王。この状態に陥ると、魔王の心を常日頃占めているあれやこれやの問題が洪水のようにあふれ出てきて、魔王が苦悶の涙を流すことをコバちゃんはよく心得ていた。
その時を待って、コバちゃんは、優しく魔王の肩を抱く。そして、魔王が避けて通りたい問題をストレートに問いかけ、その解決策を話してきかせてやるのであった。
マインドコントロールされた魔王は、コバちゃんの言うことに何でも従った。
税理士であったコバちゃんの父親は、かつて周囲の勧めもあって市会議員選挙に立候補し、敗北した。支持勢力の造反や寝返り、組織的な買収工作、選挙違反とその密告・・・。
最後は孤立無援、地盤皆無の状態で闘い、ボロボロになってしまった父の姿をコバちゃんは覚えていた。
「先生。クモの巣のように、人脈の目を張り巡らせましょう。1つ1つ確かな糸を紡いでいくのです。」
言葉は優しいが、コバちゃんの眼は復讐に燃えるどうもうなウルフガン(狼眼)になっていた。
魔王はコバちゃんの言葉に子供のように頷いた。
(18)リンゴ飴
今日はスキムラ・ショウゾウの初レッスンの日である。
父子連れ立って、45分遅れでやって来た。
「駅からの道が複雑で、迷ってしまいました。」と言い訳するスキムラ父には、あわてている様子は微塵もなかった。遅刻の確信犯として、悠々と魔王邸にやって来たように思えた。
駅から魔王邸までのわかりやすい地図は事前にFAXで送ってある。その地図を見て、道に迷ったなどという例は聞いたことがない。
息子のショウゾウはニューヨーク・ヤンキースの野球帽を被ったままで、挨拶もしない。それどころか、縁日の露店で買ったのだろうか、棒つきの真っ赤なリンゴ飴をベロベロと舐めていた。初レッスンの日に、しかも師匠の面前で、下品にも平気で飴を舐めている。しかもそれを父親が注意しようともしない。特注と思しき分数ヴァイオリン専用の四角いケースとレッスンバッグは、父親が抱えていた。
魔王は嫌な予感がした。
レッスン開始。
「こんにちは。ショウゾウ君。それでは、ヴァイオリンを出してくれるかな。」
ショウゾウはリンゴ飴を舐めるのをやめない。唇の周辺が広い範囲で赤くなっている。べちゃべちゃべちゃと唾液がほとぼしる。
「ショウゾウ、こら、ショウゾウ。飴を舐めるのをやめなさい。」
やっと父親のスキムラが注意した。しかし、この少年の場合、1回や2回の人の言葉は、親からのものであれ、先生からのものであれ、まず右の耳から左の耳にあっさり抜けていって、一切残らない。ベチャベチャは簡単に収まらない。
「こ、こら。ショウゾウ。レッスンが始まったんだから、飴を舐めるのはやめなさい。」
叱っているようだが、声音はおもねるように優しい。この父親の平素からの子供に対するコミットメントの薄さを如実に物語っていた。
「やめなさい。」と、父は仕方なくショウゾウの口からリンゴ飴を引き剥がそうとした。その拍子に、リンゴ飴が棒からスッポリと抜けて、床に落ちてしまった。
「あーーん。ボビのリンゴ飴、ボビのリンゴ飴があーつ。あーーん。」
「あーっ。ごめんよ。ごめんよ。ショウゾウ。パーパが悪かった。許してくれ、許してくれ。」
父親が子供に本気で謝っている。ショウゾウはこれで小学校4年生なのだ。これはヴァイオリンのレッスンどころではない。とんでもない父子を弟子にとってしまった、と魔王は暗澹とした気持ちになってきた。
「せ、先生。ちょっと待って下さい。私、ちょっと行ってきます。リンゴ飴を買いに。」
スキムラ父はヘピのような眼の小顔を真っ赤にしながら、魔王に向かって言った。その歯には青海苔がいくつもくっついていた。そして、唇の端にはマヨネーズミックスのソースの痕跡が確かにあった。
さっきタコ焼きを食べてきたであろうことは明白であった。
この父子、レッスンに来る前に、駅前のふれあいフェスティバルの露店に寄り道してきたに違いなかった。レッスン時間に大幅に遅れてきたのはそのためであった。
(19)彼方のソナタ
「ショウゾウ君、かわりのリンゴ飴は僕が買ってきてあげるから、ヴァイオリンを出して、今習っている曲を弾いてみてくれないかな。」
コバちゃんが、マエストーソな(威厳に満ちた)声でゆっくりと言った。その響きはスキムラ父子の動きを止めた。
父親とは似ても似つかない膨れ上がった身体。顔もそれに比例して大きいが、眼だけは細い。その眼をさらに細くして、ショウゾウは怖れるようにコバちゃんを見た。微笑んでいるコバちゃん。
「うまく弾けたら、新しいリンゴ飴をあげよう。」とコバちゃんが言った。
優しそうだが、コバちゃんの言葉と態度には、きっぱりとしたものがあった。少年は口中に残っていたリンゴ飴のかけらをごくりと飲み込んだ。
そして沈黙の数十秒が過ぎていった。いや・・・
−さあ、上手に弾いてごらん。君が上手に弾けば、いいことがあるよ。
誰もが沈黙しているはずなのに、遠く彼方から響いてくるような声がした。その声はどうやらコバちゃんのほうから聞こえてくるようなのに、コバちゃんは口を動かしていなかった。ショウゾウは不思議に思った。
−さあ、ヴァイオリンのケースを開けて。
と、また声がした。魔王にもスキムラ父にもその声はまったく聞こえなかった。ショウゾウの耳だけにはっきりと聞こえた。
その声は優しく、深く、人間の声のようでいて、何かの楽器が奏でる音楽の心地よさに包まれているようでもあった。
はじかれたように少年はヴァイオリンケースを開けて、ヴァイオリンと弓を取り出した。そしてそれをコバちゃんに渡した。コバちゃんは弓の毛を締め、軽く調弦して、少年に返した。
「何を弾いてくれるのかな?」
「ヘンデル。」
「ソナタ第3番2楽章だね。」
魔王とスキムラ父はあっけにとられて、その様子を眺めていた。
少年はまじめな顔つきになって、ヴァイオリンを弾き始めた。
(20)フギャアスケート
スキムラ・ショウゾウが弾いたのは、「ヘンデルのソナタ」ではなかった。
それは、「変だなのソナタ」、あるいは「ヘル(地獄)ではそうなった」と呼ぶしかない代物であった。
とんでもない音程。地の底を這いずり回るような、異様にひしゃげ、けいれんした音。左手の手のひらがベッタリとヴァイオリンのネックに密着し、弓は弦の上で酔いどれた「フギャア!」スケーターのように滑りまくり、弧を描き、蛇行していた。
それは、悪い所ばかりをこれでもかとすべて寄せ集めてきたような絶望的な弾き方であった。体中を掻きむしって、「イー」に濁点をつけて叫び出したくなるようなノイズ、ノイズ、ノイズ・・・。
魔王の暗澹たる気持ちは、さらに深まっていった。このレベル、この性格、しかもこの親では、まともにヴァイオリンを弾けるようには絶対にならないだろう。本当にとんでもない弟子を背負い込んでしまった。しかもオタベ幹事長の孫ときているから、よけいに始末が悪い。
ショウゾウの弓による酔っぱらいスケーティングが終了した。世界は悪魔のソナタからようやく解放されたのだ。ほっとしたコバちゃんは、リンゴ飴を買いに行くと言ってスタジオを出た。
魔王は仕方なく、この少年の姿勢やヴァイオリンと弓の持ち方など、ごく基本的な部分の矯正をするためのレッスンにとりかかることにした。
しかし、すぐにそのレッスンは、ショウゾウの統制を失った狂想曲によってかき消されていくのであった。
(21)窮鼠(きゅうそ)曲・火出ん痛付き
「ボビは嫌だ。ボビは嫌だ。この姿勢がいい。」
「イタイ、イタイ。指がイタイ。」
「ダルイ、ダルイ。腕がダルイ。」
「絶対、絶対。ジージに言いつけるぞ。」
魔王はショウゾウがこねるダダにひたすら耐えた。
父親の手前、そして背後にいるオタベ幹事長の手前。
しかし限界がある。基本的にわがままな芸術家が、一般人のわがままに耐えられるはずはない。
「そうじゃない。こうだろう!」
「こうたろう、じゃない。ボビはショウゾウ。光太郎はボビのいとこ!」
「はあ? 何を言ってるんだ。馬鹿か、お前は。」
気色ばんで魔王が怒鳴った。ショウゾウの父親はその激しい怒鳴り声に一瞬凍りついた。
ショウゾウは「ウルサイ、ウルサイ。聞かない、聞かない。」と耳をふさいで、だんご虫のように丸まった。
断固無視、状態である。
「何をやってるんだ。立て! 立って、ちゃんと構えろ!」
そう言うと、魔王はショウゾウのぶよぶよの腕をつかんだ。
「あっ。つかんだ。つかんだ。ボビをつかんだ。」
「せ、先生、いけません。離して下さい。離して下さい。」
スキムラ父が青ざめて言った。あくまでも子供の立場に立とうとする、どうしようもない父親。
「さあ、立て!」
ガブッ!
「ギャアーーーー」
魔王の右手の甲に激痛が走った。ショウゾウが噛みついたのだ。
唾液で薄められたリンゴ飴の赤が、血と交じり合ってにじむ。そこに鮮やかな輪郭で残された歯型。血液の脈動でジンジンする激痛に魔王は襲われた。
「イターーーイ。痛、 痛、 痛、痛。」
魔王は飛び上がって、苦悶した。
「だから先生、申し上げたでしょう。この子にいきなり触ってはいけません、と。」
それ見たことかと言わんばかりに、スキムラ父がクールに言った。
「な、な、な、何だそれは!」
血のにじむ手を押さえて、魔王が絶叫した。
「ああ、ソロを弾かないといけないのに。どうしたらいいだ。右手が痛い。イターーーーイ。弓が持てないよ。あーーん。オロローーーン。オロローーーン。」
大の大人が正体を失くして、本気で泣き喚く。
断固無視に化身していた凶暴な鼠は、さすがにこの姿を見ると、自分のしでかしたことの重大さに気づいたようで、しおらしくなった。
−そうです。甘やかせば、つけあがります。しかし、大人が本気で喜怒哀楽を示せば、しおらしくなります。
激痛でぼんやりした頭の中の彼方で、誰かがそう言ったように魔王は感じた。
(22)ダダイスト
激痛に襲われ、死のロンドを舞った魔王は、本日のレッスン中止をスキムラ父に宣告し、手の治療のためにスタジオを出て行った。
ショウゾウはうずくまったままだった。父は茫然自失の状態で、スタジオの中を歩き回った。
「ああ、何ということだ。先生の手を噛むなんて。いけない子だねえ。」
スキムラ父がそう言うと、ショウゾウは泣きだした。
「ボビは悪くないのに、パーパが怒った。うえーーーん。」
幼児期、子供は誰でもダダイストである。本人の成長と共に、ダダがただのわがままに過ぎぬことを普通は家庭のしつけでたたき込む。スキムラ家はしつけを放棄し、幼稚園や学校、お稽古事にダダイスト・ショウゾウの矯正をすべて押し付けた。その悲劇の結果が、このどうショウもないゾウであった。
子供の個性尊重を、とのお題目が生み出した悲劇。ダダをこねれば、世界は黙って言うことを聞く。最後に泣けば、すべてが自分の思い通りに解決できる。悪いのは周りの世界や他人で、自分はいつも正しい。そう考え、行動することがショウゾウの習性となってしまった。
スキムラ父はショウゾウを抱きしめて言った。
「ごめんよ。ごめんよ。パーパが悪かった。そうだね。ショウゾウは悪くないね。ごめんね。」
ショウゾウは父の懐ですすり泣き続けた。
それから2〜3分が経過しただろうか。ショウゾウの涙が枯れてきた頃、リンゴ飴を買いに行っていたコバちゃんが、戻ってきたような気配がした。気配がするだけで、実際にスタジオには入ってきていないが。
いや、ひょっとして、まだ戻ってきていないのかもしれない・・・
スタジオの窓の外には夕闇が迫っていた。
あの印象的な旋律がショウゾウの耳元で鳴り出したのは、その時だ。
ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。
そう、読者諸兄はなつかしく思い出されることであろう。中学の音楽の授業で誰しも耳にし、大うけだった、あの前奏部分がゆっくりとショウゾウの聴覚をとらえ始めたのだ。
ショウゾウは異次元へとトリップした。
(23)シューベルト「魔王」の世界へようこそ
ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。
「父の七光りで、馬を駆り、立候補しようとするものあり。
うでにわらべ、おびゆるを。しっかとばかりいだけり。」
「ショウゾウ、なぜ顔を隠すんだ。」
「パーパ。そこに見えないの。マオーがいるよ。こわいよ。」
「ショウゾウ、何を言っているんだ。毛沢東がいるわけないだろう。今は胡錦濤だよ。」
「かわいい坊や。おいでよ。ヴァイオリンのおけいこなんかやめて、おもしろい遊びをしよう。川岸には花さか爺さん。きれいなアベベの足の裏。」
「パーパ。パーパ。聞こえないの。マオーが何か言うよ。」
「なあに、あれはハリマオの雄叫びだ。カバヤのビックリマンシールだよ。」
「坊や。一緒においでよ。ヴァイオリンなんかやめてしまえ。用意はとうにできている。娘とスケートでもしてお遊びよ。歌のねーねとデュエットもさしたげる。ここは何でも自由にできるいいところじゃよ。さあ、おいで。」
「パーパ。パーパ。マオーの娘が現れたよ。」
「ショウゾウ、何を言ってるんだ。浅田真央が現れるはずはないだろう。トリノに行けるのは美姫だよ。」
「かわいや、坊や。いい子じゃのう。坊や、じたばたしてもさらってくぞ。さらわれたくなければ、ダダをこねないで、ヴァイオリンをきちんとさらってみるか?」
「パーパ。パーパ。マオーが僕をつかんだよ。放せ、放せってば」
*注)「オンライン音楽室」の「曲目一覧」の「魔王」参照。原曲のシューベルト歌曲「魔王」(大木惇夫・伊藤武雄の共訳詩)が試聴できます。
(24)さらう
「放せよ、放せってば。また噛むぞ! 噛むぞ!」
ガリッ!
ショウゾウが噛み付いたのは今度は手の甲ではなかった。新しいリンゴ飴だった。
夢うつつの状態でうなされながら父に抱かれていたショウゾウの傍らに、いつの間にかコバちゃんが立っていた。コバちゃんは、忘我の状態でシューベルトの魔王の世界にたゆたっていたショウゾウの半開き状態の口に、買ってきたリンゴ飴を突っ込んでやったのだ。
「うわあ、リンゴ飴。ボビのリンゴ飴。」
夢から醒めたショウゾウは、口中の幸せに再び我を忘れて、飴をボリボリかじり始めた。
ショウゾウを抱きしめていたスキムラ父は顔を上げて、音もなく突然現れたコバちゃんを不思議そうに見つめていた。
「いつの間に。帰ってこられたんですね。」とスキムラ父。
「魔王先生のかわりに、僕がしばらくショウゾウ君の基礎的なレッスンをさせていただくことになりました。魔王先生にもさきほど了解していただきました。」
コバちゃんが言った。
「・・・。 たしかに、小林先生だと、なぜかこの子も、言うことを聞くようです。」
「そのようですね。」
コバちゃんはそう言うと、ショウゾウの体を優しく起こしてやった。なよなよしていたショウゾウの体に、不思議なことに一本筋が通ったようだった。
ショウゾウはリンゴ飴を口から離すと、決然と言った。
「先生、ボビはマオーにさらわれたくありません。だから、ちゃんとヴァイオリンをさらいます。教えてください。お願いします。」
ペコリと頭まで下げたわが子に、スキムラ父は目を疑った。意味不明のことを言っているが、その口調は今までのわが子のものとはまったく異なっていた。
−これもすべて小林先生のおかげだ。
スキムラ父はそう思った。
トクダー・コバは「隠れ門下生」の発表会の運営を任されることになった。
「隠れ門下生」(以下、略して「隠れ門」と呼ぶことにする。)の発表会。
その模様は想像するだけでも、怖気(おぞけ)が走るが、本当の門下生の発表会とは完全に切り離され、魔王の成城の自宅スタジオで1年に2回、しめやかに行われることになっていた。
外のホールで催したのでは一般の人に聞かれるかもしれない。ホテルの宴会場もやはりタブーだ。宴会場担当者のホテルマンは、どのように接客上、鍛えられていたとしても、隠れ門たちの演奏を聞いたが最後、「必ず」笑い出すに決まっている。
公衆の目にとまる形でその会が催された場合は、魔王のキャリアにとって取り返しのつかない汚点となることは明らかであった。
だから、ひそかに、自宅スタジオで行うのだ。
トクダー・コバは、次回の隠れ門発表会から、会費を一人3万円から20万円に値上げすることを提案した。魔王は当初からこの発表会の会費は、伴奏代とちょっとした茶話代込みで3万円と比較的良心的に設定していたのだ。
「先生、それでは良心的すぎますよ。天下の魔王の発表会がその会費では、ブランド価値が下がってしまいます。もう少しお金を取りましょう。20万円くらい払っても、全く平気な人たちですよ、彼らは。もちろん、ただ、値上げするだけではいけませんから、次のような企画を考えました。」
トクダー・コバが魔王に示したのは「仮称『サロン・ド・魔王』について」という発表会の企画案であった。
(14)トクダー・コバの才覚
■『サロン・ド・魔王』企画書
・ 隠れ門の発表会は、従来、隠れ門だけが演奏を行っていたが、ここに、2〜3人の優秀な 門下生(きれいどころ)の演奏と魔王先生の演奏を入れることにする。隠れ門とその父兄をいい気分にさせる程度の小品をそれぞれ1曲ずつ披露すれば十分であろう。
・ 発表会後のパーティーを充実させる。フレンチの前菜のケータリングを取って、旬の最高 級の食材(例えば、国産マツタケや、松阪牛霜降り等)を仕入れ、バーベキューなどを行う。ワインもシャトー・マルゴーくらい空けたい。
・ 名称は、発表会ではなく、あくまで「サロン」とする。宮廷貴族のそれを模してドレスコ ードもかなり厳しくし、セレブ感をそそるようにする。
・ パーティー時間中に、出入りの楽器商主催による楽器品評会(実際は売り込み活動)を行 う。ストラドやグァルネリ、ガダニーニを魔王先生が試奏しつつ、隠れ門連中の購入ターゲット銘柄(都内近郊の70〜80平方メートル3LDKクラスの分譲マンション一戸分くらいのお値段。)を多数取り揃え、参加者に自由に試奏・品評してもらう。
「楽器屋からは協賛金が取れますね。単なる発表会ではなく、上等のワインで最高級の食材 を楽しむホームパーティーであるところが、ヒルズ連中の感性にびびっと来るはずです。
そうやっていい気持ちになったところで楽器の品評会をやるのです。魔王先生が試奏して薦めてやれば、イチコロですね。プレッセンダやギヨーム思い切ってガダニーニを買おうなんていう人も現れるかもしれません。
隠れ門の父兄の中にはIT企業経営者や経営幹部もいます。彼らは、J−POP系だったのに最近クラッシックにも触手を伸ばしている新興レーベルの経営者とも親しいんです。門下生のきれいどころを紹介してやれば、彼女たちのCDデビューなんて簡単なのではないでしょうか。
うーん、参加費は隠れ門+父兄1組20万円はちょっと安いかなあ。30万円でもいいか。」
まったく飛んでもない企画力。トクダー・コバの驚くべき才覚!
いいなあ、才覚。井原西鶴。
成功、逃さんよう。世間胸算用。
トクダー・コバの将来が見えてきた。
(15)えっ、魔王が出馬?−前編
幹事長との縁は、3年前。
党の諮問委員会に、民間の有識者の一人として、魔王が委員として招かれた時から始まった。
所属する有名オケの親会社会長が党の古参幹部と親しく、ぜひクラシック音楽の演奏現場から委員を、というその幹部の要請に応えて、オケのコンマスの魔王に諮問委員の白羽の矢が立ったというわけである。
嫌がる魔王の肩をたたきながら、ハバナの葉巻が好きなその親会社会長はこう言った。「うまく行けば、君もやがてヴァイオリニストにして国会議員だよ」と。
そんなことはつゆほども考えたことのない、根っからの音楽家である魔王。オケのリーダーであるコンマスとはいっても、楽器の音回しはともかく、政治の根回しなど不得手。
地方ホールのための実質ドサ回り公演は慣れてはいる。が、それと、選挙のためのどぶ板講演は、全く勝手が違うに決まっているし、そもそも人前でしゃべるくらいなら、ヴァイオリン弾かせろと、声を大にして叫び出したくなるくらいの、根っからの話下手なのだ。
しかしながら断わることもできず、引き受けてしまった。
その諮問委員会の座長を務めていたのが、党の実力者で、熟達の権力屋の異名を取るオタベであった。
オタベは座長といっても名ばかり。党内の調整やら、国会対策やらで忙しく委員会の会議があっても、議事を副座長に任せて、途中で必ず中座した。
いつも、「いや、すまん」「いや、すまん」と言って、会議を中座するのである。
しかしながら、オタベは会議などに出なくとも、そのあざとい政治家としての魅力を周囲に嫌というほどふりまき、各界出身の委員達を簡単にろう絡していった。
その人脈作りの手練手管には誰しもが感心し、委員達はいつしかオタベのことを「偉大なる、いや、すまん。」と呼ぶようになった。
魔王も行きたくもないが、料亭にクラブにゴルフにと引き回されるうちこのオタベとの関係から抜けられなくなってしまった。そして、1年前にこのオタベが、見事に党幹事長に抜擢されたのである。
親会社会長のあの言葉が魔王の脳裏に鳴り響く。
ひょっとして、いつか自分が比例代表で出馬することになるのか・・・
(16)えっ、魔王が出馬?−後編
俳優、落語家、漫才師、スケート選手、スキー選手、プロレスラー・・・
ヴァイオリニストの自分がその列に加わる。別の意味で「先生」などと呼ばれる。まんざらでもないなあ、と魔王が本気で期待を持ち始めたとき、ある電話がかかってきた。
「もしもし、魔王先生でいらっしゃいますか。」
「はい、そうですが。」
「私、幹事長オタベの第一秘書でございますが。」
「お世話になっております。」
「本日は、オタベから折り入ってお願いがございまして、お電話させていただきました。」
「はい。何でしょうか。」
「実は、次の参議院議員選挙で・・・」
「(きたか!)選挙ですか。選挙。いや私なんか、そんな、そんな。」
「はい?」
「いや、もう。演説なんてできないですしね。立ってりゃいい、なんて言われても。あの、その。握手するでしょ、握手。」
「はあ・・・」
「選挙運動では、1日に何百人もの有権者と握手するでしょ。あれは、いけないなあ。ヴァイオリニストの手には、あれはよくないです。」
「あ、いや。魔王先生。」
「いや、恥ずかしいなあ、選挙カーに乗るなんて。嫌だなあ、立ち会い演説会は・・・。」
「あの魔王先生。先生の選挙のことではありませんが。」
「えっ?」
「先生の選挙ではなくてですね・・・。」
「はあ・・・」
「実は、次の選挙でオタベの次男が立候補するんですが・・・」
「はい。」
「スキムラというんですが。ここの長男が小学校4年生でして。」
「はい。」
「実は、ヴァイオリンを習っております。」
「ヴァイオリンを。」
「はい。どうやら今の先生が合わないらしくて。できれば魔王先生のお弟子の仲間入りをさせていただければ、とオタベが申しております。」
「あっ、私の門下に。」
「よろしいでしょうか? オタベはああ見えても、孫のことになると単なる優 しいおじいちゃんなんです。入門させていただければ、オタベも殊のほか喜ぶと思います。」
「いいですよ。わかりました。」
完全に思惑はずれ。
まあ、仕方がない。これも何かの縁。国会議事堂でヴァイオリンを演奏する夢はまだまだ先のようだが、オタベ幹事長の頼みとあれば、お安いご用だ。
魔王は入門を無条件でOKした。
(17)ウルフガングの囁き
オタベの次男は不肖の息子である。東大→高級官僚→衆議院議員のゴールドコースを歩んだ長男とは正反対に、次男は遊び呆けていた私大在学中に訪れたオーストラリアのゴールドコーストで、語学研修の傍らボランティア活動に励む日本人女性と出会い、そのまま現地で結婚。ひとり娘だったため、養子に入ってスキムラ姓に改姓した。もちろんオタベがそれを許すはずもなく、勘当同然に。
帰国後、サラリーマンになったスキムラがオタベ家への出入りを許されるようになったのは、孫のスキムラ・ショウゾウのおかげであった。長男夫妻に子供はなく、ショウゾウは優しいオタベ爺ちゃんの寵愛を独り占めした。
スキムラの参議院議員出馬も、ショウゾウのおかげであった。
平社員スキムラは、他の隠れ門父兄に比べ、可処分所得は明らかに少ないはずである。ドクター・コバことコバちゃんは、スキムラからはバカ高なレッスン料は取らないように魔王に進言した。魔王はコバちゃんの言う通りにした。
スキムラの息子ショウゾウは、このようにして爺ちゃんの七光りで、実力もお金もないのに魔王門下にスルリと入門することになった。「サロン・ド・魔王」への参加も実費だけの徴収という特別待遇で。
「スキムラさんが次回の参議院選でめでたく当選し、政治家にヒラリと転身すれば、魔王先生にとって政界進出の足がかりがまた一つ増えることになりますよ。政治家になるには、人脈を網の目のように張り巡らせることが重要です。」
コバちゃんは魔王の肩を抱きながら、耳元にアダージョな(緩やかな)優しい言葉を吹きつけてやった。
今日は、モーツァルト・イヤーの記念コンサートで自らが独奏することになっているヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」の練習をしていた魔王。1音1音に集中し、あるべき発音について考えているうちに、いつものように「行ってしまった」のである。
魔王は自らの練習中は、スタジオの全体照明を落とし、集中のために自分にスポットライトをあてる。今、そのスポットライトは、床にへたりこんで、コバちゃんにしなだれかかっている情けない魔王の姿を鮮やかに照らしていた。
魔王は陶然とした顔で、うなされるように言った。
「ウルフガングの音楽を奏でるためには、各音をすっぽり収め、響きを端正に整える『発音の容器』が必要なんだ。そうだ、小林君、わかるかね。『容器』だ。『容器』を自分の体に備え付けることが必要なんだよ。」
一種異様な妖気をたたえて、容器を語る魔王。この状態に陥ると、魔王の心を常日頃占めているあれやこれやの問題が洪水のようにあふれ出てきて、魔王が苦悶の涙を流すことをコバちゃんはよく心得ていた。
その時を待って、コバちゃんは、優しく魔王の肩を抱く。そして、魔王が避けて通りたい問題をストレートに問いかけ、その解決策を話してきかせてやるのであった。
マインドコントロールされた魔王は、コバちゃんの言うことに何でも従った。
税理士であったコバちゃんの父親は、かつて周囲の勧めもあって市会議員選挙に立候補し、敗北した。支持勢力の造反や寝返り、組織的な買収工作、選挙違反とその密告・・・。
最後は孤立無援、地盤皆無の状態で闘い、ボロボロになってしまった父の姿をコバちゃんは覚えていた。
「先生。クモの巣のように、人脈の目を張り巡らせましょう。1つ1つ確かな糸を紡いでいくのです。」
言葉は優しいが、コバちゃんの眼は復讐に燃えるどうもうなウルフガン(狼眼)になっていた。
魔王はコバちゃんの言葉に子供のように頷いた。
(18)リンゴ飴
今日はスキムラ・ショウゾウの初レッスンの日である。
父子連れ立って、45分遅れでやって来た。
「駅からの道が複雑で、迷ってしまいました。」と言い訳するスキムラ父には、あわてている様子は微塵もなかった。遅刻の確信犯として、悠々と魔王邸にやって来たように思えた。
駅から魔王邸までのわかりやすい地図は事前にFAXで送ってある。その地図を見て、道に迷ったなどという例は聞いたことがない。
息子のショウゾウはニューヨーク・ヤンキースの野球帽を被ったままで、挨拶もしない。それどころか、縁日の露店で買ったのだろうか、棒つきの真っ赤なリンゴ飴をベロベロと舐めていた。初レッスンの日に、しかも師匠の面前で、下品にも平気で飴を舐めている。しかもそれを父親が注意しようともしない。特注と思しき分数ヴァイオリン専用の四角いケースとレッスンバッグは、父親が抱えていた。
魔王は嫌な予感がした。
レッスン開始。
「こんにちは。ショウゾウ君。それでは、ヴァイオリンを出してくれるかな。」
ショウゾウはリンゴ飴を舐めるのをやめない。唇の周辺が広い範囲で赤くなっている。べちゃべちゃべちゃと唾液がほとぼしる。
「ショウゾウ、こら、ショウゾウ。飴を舐めるのをやめなさい。」
やっと父親のスキムラが注意した。しかし、この少年の場合、1回や2回の人の言葉は、親からのものであれ、先生からのものであれ、まず右の耳から左の耳にあっさり抜けていって、一切残らない。ベチャベチャは簡単に収まらない。
「こ、こら。ショウゾウ。レッスンが始まったんだから、飴を舐めるのはやめなさい。」
叱っているようだが、声音はおもねるように優しい。この父親の平素からの子供に対するコミットメントの薄さを如実に物語っていた。
「やめなさい。」と、父は仕方なくショウゾウの口からリンゴ飴を引き剥がそうとした。その拍子に、リンゴ飴が棒からスッポリと抜けて、床に落ちてしまった。
「あーーん。ボビのリンゴ飴、ボビのリンゴ飴があーつ。あーーん。」
「あーっ。ごめんよ。ごめんよ。ショウゾウ。パーパが悪かった。許してくれ、許してくれ。」
父親が子供に本気で謝っている。ショウゾウはこれで小学校4年生なのだ。これはヴァイオリンのレッスンどころではない。とんでもない父子を弟子にとってしまった、と魔王は暗澹とした気持ちになってきた。
「せ、先生。ちょっと待って下さい。私、ちょっと行ってきます。リンゴ飴を買いに。」
スキムラ父はヘピのような眼の小顔を真っ赤にしながら、魔王に向かって言った。その歯には青海苔がいくつもくっついていた。そして、唇の端にはマヨネーズミックスのソースの痕跡が確かにあった。
さっきタコ焼きを食べてきたであろうことは明白であった。
この父子、レッスンに来る前に、駅前のふれあいフェスティバルの露店に寄り道してきたに違いなかった。レッスン時間に大幅に遅れてきたのはそのためであった。
(19)彼方のソナタ
「ショウゾウ君、かわりのリンゴ飴は僕が買ってきてあげるから、ヴァイオリンを出して、今習っている曲を弾いてみてくれないかな。」
コバちゃんが、マエストーソな(威厳に満ちた)声でゆっくりと言った。その響きはスキムラ父子の動きを止めた。
父親とは似ても似つかない膨れ上がった身体。顔もそれに比例して大きいが、眼だけは細い。その眼をさらに細くして、ショウゾウは怖れるようにコバちゃんを見た。微笑んでいるコバちゃん。
「うまく弾けたら、新しいリンゴ飴をあげよう。」とコバちゃんが言った。
優しそうだが、コバちゃんの言葉と態度には、きっぱりとしたものがあった。少年は口中に残っていたリンゴ飴のかけらをごくりと飲み込んだ。
そして沈黙の数十秒が過ぎていった。いや・・・
−さあ、上手に弾いてごらん。君が上手に弾けば、いいことがあるよ。
誰もが沈黙しているはずなのに、遠く彼方から響いてくるような声がした。その声はどうやらコバちゃんのほうから聞こえてくるようなのに、コバちゃんは口を動かしていなかった。ショウゾウは不思議に思った。
−さあ、ヴァイオリンのケースを開けて。
と、また声がした。魔王にもスキムラ父にもその声はまったく聞こえなかった。ショウゾウの耳だけにはっきりと聞こえた。
その声は優しく、深く、人間の声のようでいて、何かの楽器が奏でる音楽の心地よさに包まれているようでもあった。
はじかれたように少年はヴァイオリンケースを開けて、ヴァイオリンと弓を取り出した。そしてそれをコバちゃんに渡した。コバちゃんは弓の毛を締め、軽く調弦して、少年に返した。
「何を弾いてくれるのかな?」
「ヘンデル。」
「ソナタ第3番2楽章だね。」
魔王とスキムラ父はあっけにとられて、その様子を眺めていた。
少年はまじめな顔つきになって、ヴァイオリンを弾き始めた。
(20)フギャアスケート
スキムラ・ショウゾウが弾いたのは、「ヘンデルのソナタ」ではなかった。
それは、「変だなのソナタ」、あるいは「ヘル(地獄)ではそうなった」と呼ぶしかない代物であった。
とんでもない音程。地の底を這いずり回るような、異様にひしゃげ、けいれんした音。左手の手のひらがベッタリとヴァイオリンのネックに密着し、弓は弦の上で酔いどれた「フギャア!」スケーターのように滑りまくり、弧を描き、蛇行していた。
それは、悪い所ばかりをこれでもかとすべて寄せ集めてきたような絶望的な弾き方であった。体中を掻きむしって、「イー」に濁点をつけて叫び出したくなるようなノイズ、ノイズ、ノイズ・・・。
魔王の暗澹たる気持ちは、さらに深まっていった。このレベル、この性格、しかもこの親では、まともにヴァイオリンを弾けるようには絶対にならないだろう。本当にとんでもない弟子を背負い込んでしまった。しかもオタベ幹事長の孫ときているから、よけいに始末が悪い。
ショウゾウの弓による酔っぱらいスケーティングが終了した。世界は悪魔のソナタからようやく解放されたのだ。ほっとしたコバちゃんは、リンゴ飴を買いに行くと言ってスタジオを出た。
魔王は仕方なく、この少年の姿勢やヴァイオリンと弓の持ち方など、ごく基本的な部分の矯正をするためのレッスンにとりかかることにした。
しかし、すぐにそのレッスンは、ショウゾウの統制を失った狂想曲によってかき消されていくのであった。
(21)窮鼠(きゅうそ)曲・火出ん痛付き
「ボビは嫌だ。ボビは嫌だ。この姿勢がいい。」
「イタイ、イタイ。指がイタイ。」
「ダルイ、ダルイ。腕がダルイ。」
「絶対、絶対。ジージに言いつけるぞ。」
魔王はショウゾウがこねるダダにひたすら耐えた。
父親の手前、そして背後にいるオタベ幹事長の手前。
しかし限界がある。基本的にわがままな芸術家が、一般人のわがままに耐えられるはずはない。
「そうじゃない。こうだろう!」
「こうたろう、じゃない。ボビはショウゾウ。光太郎はボビのいとこ!」
「はあ? 何を言ってるんだ。馬鹿か、お前は。」
気色ばんで魔王が怒鳴った。ショウゾウの父親はその激しい怒鳴り声に一瞬凍りついた。
ショウゾウは「ウルサイ、ウルサイ。聞かない、聞かない。」と耳をふさいで、だんご虫のように丸まった。
断固無視、状態である。
「何をやってるんだ。立て! 立って、ちゃんと構えろ!」
そう言うと、魔王はショウゾウのぶよぶよの腕をつかんだ。
「あっ。つかんだ。つかんだ。ボビをつかんだ。」
「せ、先生、いけません。離して下さい。離して下さい。」
スキムラ父が青ざめて言った。あくまでも子供の立場に立とうとする、どうしようもない父親。
「さあ、立て!」
ガブッ!
「ギャアーーーー」
魔王の右手の甲に激痛が走った。ショウゾウが噛みついたのだ。
唾液で薄められたリンゴ飴の赤が、血と交じり合ってにじむ。そこに鮮やかな輪郭で残された歯型。血液の脈動でジンジンする激痛に魔王は襲われた。
「イターーーイ。痛、 痛、 痛、痛。」
魔王は飛び上がって、苦悶した。
「だから先生、申し上げたでしょう。この子にいきなり触ってはいけません、と。」
それ見たことかと言わんばかりに、スキムラ父がクールに言った。
「な、な、な、何だそれは!」
血のにじむ手を押さえて、魔王が絶叫した。
「ああ、ソロを弾かないといけないのに。どうしたらいいだ。右手が痛い。イターーーーイ。弓が持てないよ。あーーん。オロローーーン。オロローーーン。」
大の大人が正体を失くして、本気で泣き喚く。
断固無視に化身していた凶暴な鼠は、さすがにこの姿を見ると、自分のしでかしたことの重大さに気づいたようで、しおらしくなった。
−そうです。甘やかせば、つけあがります。しかし、大人が本気で喜怒哀楽を示せば、しおらしくなります。
激痛でぼんやりした頭の中の彼方で、誰かがそう言ったように魔王は感じた。
(22)ダダイスト
激痛に襲われ、死のロンドを舞った魔王は、本日のレッスン中止をスキムラ父に宣告し、手の治療のためにスタジオを出て行った。
ショウゾウはうずくまったままだった。父は茫然自失の状態で、スタジオの中を歩き回った。
「ああ、何ということだ。先生の手を噛むなんて。いけない子だねえ。」
スキムラ父がそう言うと、ショウゾウは泣きだした。
「ボビは悪くないのに、パーパが怒った。うえーーーん。」
幼児期、子供は誰でもダダイストである。本人の成長と共に、ダダがただのわがままに過ぎぬことを普通は家庭のしつけでたたき込む。スキムラ家はしつけを放棄し、幼稚園や学校、お稽古事にダダイスト・ショウゾウの矯正をすべて押し付けた。その悲劇の結果が、このどうショウもないゾウであった。
子供の個性尊重を、とのお題目が生み出した悲劇。ダダをこねれば、世界は黙って言うことを聞く。最後に泣けば、すべてが自分の思い通りに解決できる。悪いのは周りの世界や他人で、自分はいつも正しい。そう考え、行動することがショウゾウの習性となってしまった。
スキムラ父はショウゾウを抱きしめて言った。
「ごめんよ。ごめんよ。パーパが悪かった。そうだね。ショウゾウは悪くないね。ごめんね。」
ショウゾウは父の懐ですすり泣き続けた。
それから2〜3分が経過しただろうか。ショウゾウの涙が枯れてきた頃、リンゴ飴を買いに行っていたコバちゃんが、戻ってきたような気配がした。気配がするだけで、実際にスタジオには入ってきていないが。
いや、ひょっとして、まだ戻ってきていないのかもしれない・・・
スタジオの窓の外には夕闇が迫っていた。
あの印象的な旋律がショウゾウの耳元で鳴り出したのは、その時だ。
ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。
そう、読者諸兄はなつかしく思い出されることであろう。中学の音楽の授業で誰しも耳にし、大うけだった、あの前奏部分がゆっくりとショウゾウの聴覚をとらえ始めたのだ。
ショウゾウは異次元へとトリップした。
(23)シューベルト「魔王」の世界へようこそ
ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。ダダダダダダダダ、ダリラリラッタ。
「父の七光りで、馬を駆り、立候補しようとするものあり。
うでにわらべ、おびゆるを。しっかとばかりいだけり。」
「ショウゾウ、なぜ顔を隠すんだ。」
「パーパ。そこに見えないの。マオーがいるよ。こわいよ。」
「ショウゾウ、何を言っているんだ。毛沢東がいるわけないだろう。今は胡錦濤だよ。」
「かわいい坊や。おいでよ。ヴァイオリンのおけいこなんかやめて、おもしろい遊びをしよう。川岸には花さか爺さん。きれいなアベベの足の裏。」
「パーパ。パーパ。聞こえないの。マオーが何か言うよ。」
「なあに、あれはハリマオの雄叫びだ。カバヤのビックリマンシールだよ。」
「坊や。一緒においでよ。ヴァイオリンなんかやめてしまえ。用意はとうにできている。娘とスケートでもしてお遊びよ。歌のねーねとデュエットもさしたげる。ここは何でも自由にできるいいところじゃよ。さあ、おいで。」
「パーパ。パーパ。マオーの娘が現れたよ。」
「ショウゾウ、何を言ってるんだ。浅田真央が現れるはずはないだろう。トリノに行けるのは美姫だよ。」
「かわいや、坊や。いい子じゃのう。坊や、じたばたしてもさらってくぞ。さらわれたくなければ、ダダをこねないで、ヴァイオリンをきちんとさらってみるか?」
「パーパ。パーパ。マオーが僕をつかんだよ。放せ、放せってば」
*注)「オンライン音楽室」の「曲目一覧」の「魔王」参照。原曲のシューベルト歌曲「魔王」(大木惇夫・伊藤武雄の共訳詩)が試聴できます。
(24)さらう
「放せよ、放せってば。また噛むぞ! 噛むぞ!」
ガリッ!
ショウゾウが噛み付いたのは今度は手の甲ではなかった。新しいリンゴ飴だった。
夢うつつの状態でうなされながら父に抱かれていたショウゾウの傍らに、いつの間にかコバちゃんが立っていた。コバちゃんは、忘我の状態でシューベルトの魔王の世界にたゆたっていたショウゾウの半開き状態の口に、買ってきたリンゴ飴を突っ込んでやったのだ。
「うわあ、リンゴ飴。ボビのリンゴ飴。」
夢から醒めたショウゾウは、口中の幸せに再び我を忘れて、飴をボリボリかじり始めた。
ショウゾウを抱きしめていたスキムラ父は顔を上げて、音もなく突然現れたコバちゃんを不思議そうに見つめていた。
「いつの間に。帰ってこられたんですね。」とスキムラ父。
「魔王先生のかわりに、僕がしばらくショウゾウ君の基礎的なレッスンをさせていただくことになりました。魔王先生にもさきほど了解していただきました。」
コバちゃんが言った。
「・・・。 たしかに、小林先生だと、なぜかこの子も、言うことを聞くようです。」
「そのようですね。」
コバちゃんはそう言うと、ショウゾウの体を優しく起こしてやった。なよなよしていたショウゾウの体に、不思議なことに一本筋が通ったようだった。
ショウゾウはリンゴ飴を口から離すと、決然と言った。
「先生、ボビはマオーにさらわれたくありません。だから、ちゃんとヴァイオリンをさらいます。教えてください。お願いします。」
ペコリと頭まで下げたわが子に、スキムラ父は目を疑った。意味不明のことを言っているが、その口調は今までのわが子のものとはまったく異なっていた。
−これもすべて小林先生のおかげだ。
スキムラ父はそう思った。
- [2006/02/04 11:52]
- 魔王のスタジオ【総集編】(13)〜(24) |
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