鷲見門下入門半年で、「学生音コン」へ 

1947年から始まった「全日本学生音楽コンクール」。

その東日本大会は東京で開催されたが、戦争直後のことで音楽ホールなどは皆無。九段高校の講堂を会場にした。

1951年の第5回大会。ヴァイオリン部門の本選会終了後の講堂の入口前には、審査の結果を待つ人々が集まっていた。コンサートの数などまだ少ない戦後のことで、クラシック音楽の愛好家たちは、コンクールにも関心を示し、受賞予想の下馬評などしつつ、演奏を楽しんだという。

いよいよ発表。その様子は、現在と似ている面もあり、似ていない面もある。

<<そこへ主催者の事務局員たちが大きな白い紙を広げたまま急ぎ足で入ってきた。その紙には、たった今しがた筆で書かれた墨の大きな黒い文字が、まだぬれて光りながら見え隠れしている。

一瞬、時が止まったような静けさの中で、壁の高い所に二人がかりでその紙は広げられ、画びょうが押されてゆく。

次の瞬間、「小学生の部、第一位 黒沼ユリ子」という文字が突然私の目に飛び込んできた時、私の心臓はほとんど止まりそうになった。>>

鷲見先生に入門してまだ半年。「いい勉強になるから出てみなさい」と先生に言われて出てはみたが、その年の優勝は同門で、彼女より1歳年下のT君になるだろうと、周囲は見ていた。

<<彼は熱心なお母さんにつき添われて、週に何度も宇都宮から黒い煙の出る汽車で、二食のおにぎり弁当持参でレッスンに通って来ていた。テクニックの面では私より数段先をこなしていた彼が二位で、なぜ私が一位に推されたのかを後日、鷲見先生に伺ってみると、全審査員から私の演奏は“よくうたっている”ことが認められたから、とのことだった。>>

『ヴァイオリン・愛はひるまない』(黒沼ユリ子 / 海竜社)より構成及び引用

10歳で鷲見三郎門下に、でも・・・ 

8歳のクリスマスの夜、父がヴァイオリンと弓をプレゼントにくれた。

「どうだ、やっと手に入れたぞ」と言わんばかりに、父の顔は得意満面だった。

1948年(昭和23年)。おけいこに通ったのは、「才能教育研究所」東京支部の第1号教室。

彼女のヴァイオリンケースは、母がグリーンの厚地の和服をほどいて、一針一針手で縫ってくれた布の袋だった。

学校から走って帰宅すると、彼女は大好きなヴァイオリンの練習を始める。

「ユリ子、オヤクメシキではダメよ!」

母の大きな声が飛んできて、彼女は弓を止める。

「お役目式」で、ただ義務のように弾いているだけでは決して上達しない。

一生懸命に心を込めて弾いているのか、ただおざなりに音符だけをつなげて弾いているのか、音楽家でもない母は見事に聴き分けているのだった。

8歳という遅咲きのスタートながら、彼女は2年足らずで、教室のトップクラスに駆け上がる。新しい曲を次々に弾ける喜びが、上達を後押しした。

しかし父は、その現状に満足していなかった。本格的にレッスンを受ける師を懸命に探し、あらゆるつてを辿った。

父とふたりで、鷲見三郎先生の自宅の玄関に立った時、彼女は名伏しがたい心細さに襲われた。

<<レッスン室からは、私には音符の想像もできないほど難しそうなパッセージの曲を、誰かがスラスラ弾いているのが聞こえてくる。

やがてそのレッスンが終わって、部屋から出てきた男の子を見て、私は自分の目を疑った。なんとその子は、私よりもずっと年少に見えたのだから。>>

続いて出てきた鷲見先生は和服姿で、かけたメガネの奥には、どんなことでも見抜かれてしまいそうな鋭い目が光っていた。

ヴィヴァルディの協奏曲ト短調を鷲見先生の前で弾く。

先生が尋ねた。

「エチュードには何を?」

彼女は、「エチュード」という言葉の意味さえ理解できなかった。

さらに追い討ちをかけるように、鷲見先生は言った。

「セブシックは何もやっていないのですか。」

もちろん「セブシック」も初耳だった。

−『ヴァイオリン・愛はひるまない』(黒沼ユリ子 / 海竜社)より構成及び引用


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ヴァイオリンを休めるのは発表会の翌日だけ 

ひとつの曲を仕上げることの難しさ。

各部の難所・課題をクリアーしようと必死で練習する。が、クリアーできたかに思えたら、また次の新しい課題が生じる。次から次へと。際限なく・・・

発表会までの期間は限られている。立ちはだかる壁。

やっとの思いで届きそうになったバーを先生は無情にもさらなる高みへと引き上げる。「あなたはまだ練習が足りないのよ」と。

「曲を仕上げる」ということは永遠に不可能なのかもしれない。

「母も先生におとらず熱心でしたから、毎年の門下生演奏会の前は特に大変でした。演奏会の日と曲目がきまると、なにか自分が歩いていく道のはるか彼方に大きな鉄板のようなものが立ちはだかったようで、それだけに演奏会の終わったあとの解放感は格別でした。

演奏会の翌日だけは練習しないでよいことになっていて、朝から一日中交通博物館にいたこともあります。」(浦川宣也「練習に明け暮れた日々」−『回想の小野アンナ』所収−より)

余談だが、浦川少年のような鉄道大好き少年たちの「夢の国」だった交通博物館は今年5月14日、70年の歴史に終わりを告げ、閉館した。

練習が足りないと叱られる 

さほどの苦労や努力をしなくても、弾けてしまう。

しかしそのこと自体が悩みとなることがある。

曲をひと通り弾けてしまうと、細部の完成度を上げることにはあまり興味が持てなくなる。自分ではうまく弾けていると思っているところに、ことごとく先生の注意の矢が飛んで来る。「どこがいけないのだろう」と思ってしまう。

完成度を上げるための練習など億劫だ。もっと別の曲、新しい曲を弾いてみたい。そのほうが楽しい。

しかし指導者は、子供心の赴くままを決して許しはしない。

将来の演奏家としての礎を早期の段階で形作っておくために、より細部を、そしてより高度なことを厳しく求めようとする。

「先生にはしょっちゅう、練習が足りないと叱られました。何を何分、何を何時間練習したか書いていらっしゃいと言われて、レッスンのたびに練習時間の記録を先生に出さなければなりませんでした。

およそ半年くらいそういうことが続いたと思います。時間を水増しして『これだけ練習したらもっと良く弾けるはずです』と髪をひっぱられたこともありました。

レッスンの最中にうまく弾けない所は繰り返し繰り返しやらされるので、今でも『そこ十回弾きなさい』という先生の声が耳もとに響くような気がします。」(浦川宣也「練習に明け暮れた日々」−『回想の小野アンナ』所収−より)

あがってしまう 

東京芸大教授、浦川宣也。

小1で小野アンナに師事する。1948年(昭和23年)、小3の時の門下生発表会でヴィヴァルディの協奏曲イ短調を、翌年の発表会では早くもメンコンを弾いた。

驚異的な上達ぶりを示した浦川だったが、意外なことで悩んでいた。

「私はステージに出ると必ずあがりますが、それは子供のときからずっと同じです。あるとき、母がアンナ先生に『うちの子はあがってしようがありません』と申しあげたことがありました。すると先生は、『あがらなければ演奏家ではありません』とおっしゃったのです。

私は子供心に『あがれば上手に弾けないのに』と不思議に思いましたが、それ以来安心して、今にいたるまであがりながら演奏しています。」(浦川宣也「練習に明け暮れた日々」−『回想の小野アンナ』所収−より)

オケに在籍。しかし基礎からやり直し 

ひと通り出来上がったものをすべて壊して一からやり直す。

何事においてもこれほど辛いものはない。

出来上がってきたものへの執着があったり、壊してゼロから作り上げるものへの確信がない場合、さらには自然に定着させるには骨格が固まり、身体の自由度が減少する壮年期になってしまうと、とりわけスクラップ&ビルドの道のりは長く厳しいものとなる。

よほど意志が強くないと、途中で挫折してしまう場合が多い。

三瓶詠子(みかめ・えいこ)が小野アンナ門下に入門したのは、20歳を過ぎ、すでに東京フィルハーモニー交響楽団に在籍している時だった。

初レッスンで、現在の実力を見るべく一通り曲を弾かせたあと、小野アンナは基礎からのやり直しを三瓶に命じる。

以下は三瓶の回想。

「最初から考えてもいないことをさせられた。まずボーイングをはじめから直された。弾く、というより体操のようなことで、数週間して音のつなぎ方、弓の返し方、移弦、力の抜き方等、当時としては全くユニークな方法と思われることを徹底してさせられた。

ポジションの移動、難しいパッセージの練習方法、重音のとり方、左指を強くする方法等、厳しかった。奏法のテクニックは順序よく、無駄なく整理されていて、それまでは何も知らず、余りにも考えずに漠然と弾いていたことに気が付いて、ただ夢中で教えられたことを消化しようと努力して何か月か過ぎた。

曲はなかなかいただけなくて、専ら、スケールとエチュードばかり。」(三瓶詠子「アンナ先生を偲ぶ」−『回想の小野アンナ』所収−より)

三瓶詠子は1945年〜55年まで東京フィルに在籍。やがて小野アンナの代理で門下生への指導を行うようになる。

1962年、桐朋学園大付属「子供のための音楽教室」講師。1974年、同大学講師。加藤知子らの指導者として知られる。

オイストラフの練習法 

諏訪がベルギーに留学した翌年1937年(昭和12年)、ブリュッセルで第1回イザイ・コンクール(エリザベート王妃国際ヴァイオリンコンクールの前身)が開かれた。

その年の第1位はダヴィッド・オイストラフ。1位〜6位までがすべてソ連からの参加者であった。

「私も日参をして予選から全部聞いたんですよ。この年のオイストラフの演奏はほんとうに圧巻でしたね。どうしてあんなふうに弾けるんだろうって、ショーモンさんのお弟子さんたちと話していたら、オイストラフの勉強の方法は特別だっていうんですね。ひとつのパッサージュを弾いてみて、次にそれを逆に弾いてみるんだっていうんです。つまりドレミと弾いたら、次にミレドと弾いて練習するというんですよ。それから、このやりかたを真似してみて、ずいぶん勉強になりましたね。」(『美貌なれ昭和』(深田祐介著・文藝春秋)より。)

諏訪は文部省の派遣留学期間が切れた1938年以降も欧州に留まり、ヴァイオリンの勉強を続けることを切望した。大倉商事パリ支店の大倉喜七郎が保証人を引き受けてくれたことで、諏訪は留学を継続することができた。

当時、フランスに留学中のピアノの原智恵子の紹介もあり、諏訪はパリでユダヤ系ロシア人のカメンスキーに師事することになる。

戦雲急を告げるヨーロッパ。間もなく第2次世界大戦が勃発するのだが、諏訪のヴァイオリンに対するひたむきな情熱はどんどん高まっていった。

1日6時間の練習。「けいこ負けするぞ」と周囲から言われるほどの練習の虫だったという。

日本でもてはやされた「天才少女」像と現実のギャップを埋めるただ一つの道は、けいこ。けいこしかない。

諏訪は戦争に翻弄される時代状況など一顧だにせず、ただヴァイオリンの道だけに邁進していった。

「天才少女」像と現実とのギャップ 

諏訪根自子の演奏を聞いて驚嘆した駐日ベルギー大使の計らいもあり、1936年(昭和11年)1月、16歳の諏訪は文部省の派遣留学生として、単身ベルギーに渡航した。

この時、朝日新聞は日比谷公会堂で「渡欧送別独奏会」を主催する。

マスメディアが注目し、マスディアが作り上げた側面もある「天才ヴァイオリニスト諏訪根自子」像。

しかし諏訪は留学先のベルギーで現実とのギャップに早々と気づかされることになる。

諏訪の回想より。

「私、親指を立てて、ヴァイオリンを弾きますでしょう。小さい頃から弾いていたから、無理が行ったのかもしれないんですけど、親指が昔からよくいうマムシでね。力が入らないんですよ。ショーモン先生にすぐそれを指摘されて、それはショックでしたね。ヴァイオリン演奏では親指が先導して指のポジションをきめなくちゃいけないからこれには困った。」
(『美貌なれ昭和』(深田祐介著・文藝春秋)より)