アッコーライは誰か?(24)−終楽章 

優れた演奏家であり偉大な指導者であったマシュー・クリックボーム。

彼に捧げられたイザイ無伴奏ソナタ第5番 第1楽章「オーロラ」、第2楽章「田舎の踊り」。

疾駆する音が織りなす世界は、民族音楽風のモチーフを確然と底流に宿す。イザイは自らの弟子の生き方に、変わらない強い意志の存在を認めていたのだろうか。

水面を流れていく風景。一方で底に留まる自分の中の何物か。透き通ってある、変わらない何物か。

カタルーニャに惹かれ、室内楽に惹かれ、作曲を志し、一方でヴァイオリンの指導者でもある自分がここにいる。

心のままに創作したこの曲は、いつも見ていた川のように多彩な風景に彩られながらも、透明だ。

静謐な確固とした意志の佇まいは、川底で徐々にきらめきを帯びる。

やがて伸びやかな音楽が帳を開ける。

美しい流れが旋回し、律動し、奔流となる。

それから、100年が経った。

アッコーライ:協奏曲第1番イ短調は、今もなお、ヴァイオリン学習者の心を捉えて離さない。

きっと、この先も、ずっと。

アッコーライは誰か?(23)−夢の葬送 

ドラマチックな導入部と哀愁を帯びた印象的な旋律。

技巧の表出は控え目で、あくまでもシンプル。だが、それゆえにこそ奏者の表現力は何の装飾も施されず、ありのままに発現される。練達の度合いによって、演奏効果は幾何級数的に高まるが、同時にそれは、協奏的楽曲への水先案内として、意図せずとも自ずから教育的でもあった。

音楽性と学習性と。

2つの価値が幸福にも共存するその協奏曲は、人生の岐路に立ったある一人の若きヴァイオリニストによって生み出されたものであったのかもしれない・・・

1930年、59歳になったブリュッセル王立音楽院主任教授は、ザイツやリーディングの曲と並んで、当時学習者に広く愛奏されていたある曲の楽譜校訂の仕事を引き受ける。

それは紛れもなく、まだ20歳代であった彼自身が作曲し、アッコーライのペンネームで発表した協奏曲第1番イ短調であった。

この協奏曲は、彼が演奏家あるいは作曲家か、指導者かの狭間で悩み、揺れ動いていた頃に作曲したものだ。当時、これを含むいくつかの協奏曲と小品とで作曲家アッコーライの名は知れ渡ったが、彼はその後自分の天職を教育活動に求める決心をし、ベルギーに帰国。本格的に指導者としての道を歩み始めることになる。

それは演奏家あるいは作曲家になりたいという、自らのもう一つの夢を断念することを意味していた。

1900年8月19日、アッコーライは67年間の生涯を閉じたとされる。そのようにして彼は自らの夢の葬送を果たしたのだろう。

しかしアッコーライの作品の中で、協奏曲第1番イ短調だけはその後、思わぬ光彩を放つ。発表された当時から、この協奏曲はとりわけ学習者や指導者の心を強く捉え、演奏会用ピースとしてよりも、学習者用ピースとして長く愛奏され続けるのである。

あたかも演奏家・作曲家であることを捨て、指導者に徹しようとした彼の人生の変転をなぞらえるように。


アッコーライは誰か?(22)−優れた指導者が作った名曲 

クリックボームは後年、ベルギーに帰国。出身地ヴェルヴィエにほど近いリエージュの音楽院で教鞭を執った後、活動の場をブリュッセルに移し、ブリュッセル王立音楽院教授となる。

バルセロナを拠点に共に演奏活動を行ったカザルスやグラナドスらが、演奏家あるいは作曲家への道を歩んでいく一方で、クリックボームは自らの天職を教育に見出す。

彼は音楽院での指導の傍ら、ヴァイオリンの技術書や指導書の執筆に旺盛に取り組んだ。同時に楽譜の校訂も行い、その多くがショット社から出版された。

先に紹介したアルベルト・バックマンの『ヴァイオリン事典』には、クリックボームが著した全5巻の指導書「ヴァイオリン 理論と実践」がリストアップされている。1929年、アメリカ・フィラデルフィアで楽譜の出版と輸入を扱う「セオドア・プレッサー社」は、「クリックボーム・メソッド」との見出しで、この書がヴァイオリン指導者にとって必携であるという広告記事を出している。

クリックボームはこの頃、すでにブリュッセル音楽院の主任教授の地位にあり、当代屈指の指導者としての名声を得ていた。同書のエッセンスを抽出した「ヴァイオリンのテクニック」(全3巻)は、フランス語・ドイツ語・英語・スペイン語版が出版され、欧米各国の指導者や学習者の間に普及した。

彼はこれらの指導書や教本のために、多くの練習曲や二重奏曲を作曲している。それは過去のヴァイオリン曲からの引用・編曲に留まらず、自らの創作によるものもあったという。

校訂版楽譜のほうは、1926年にナルディーニの協奏曲、1928年にシュポアの協奏曲、1934年にルクーのソナタ等を出版している。

また1934年には、フルニエらを育てたチェロの名伯楽、パリ音楽院教授のポール・バゼレールが作曲した「フランス組曲」のヴァイオリン編曲版の楽譜を出版している。

優れた演奏家であり、且つそれ以上に指導者としての名声を博したバゼレールはクリックボームのかつての盟友カザルスとも親しかった。そのチェロの佳曲のヴァイオリン版を編んだクリックボームには、おそらくバゼレールと同じ道を歩む身としての特別な思いがあったことだろう。

優れた指導者であり、かつ優れた曲を生み出す作曲家でもあること・・・



アッコーライは誰か?(21)−サン・セバスチャン、カジノの夜 

パブロ・カザルスは次のように回想している。

「(サラサーテは)ときどき友人のバイオリニストのエンリケ・アルボスとチェリストのアグスティン・レビオを連れて、私が夏によく弾きに行っていたサン・セバスチアンにあるカジノに宿泊しに来た。」(『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』−アルバート.E.カーン / 吉田秀和訳 朝日新聞社)

このカジノでサラサーテは演奏を楽しむ傍ら、奇矯な振る舞いやいたずらをして音楽仲間と大いに盛り上がっていたという。

1897年8月、スペイン北部、バスク地方のサン・セバスチャンにあるこのカジノで、パブロ・カザルスは確かにチェロを弾いた。トリオによる演奏で、ヴァイオリンはマシュー・クリックボーム、ピアノはエンリケ・グラナドスであった。「私が夏によく弾きに行っていた」というカザルスの回想からすると、このトリオはその年以降も度々そこで演奏を行っていたはずである。

カジノでサラサーテとクリックボームが接触していないはずはない。というよりも、ふたりは、カザルスやグラナドスも含め、ごく親しい音楽仲間であり、毎年夏、そのカジノに集まって来るメンバーであったろう。

トリオはカジノでの演奏を終えると、そのまま仲間内のパーティーに突入。宿泊しに来ていたサラサーテらもそこに加わる。

酒を飲み、興が乗ってくる。やおらサラサーテがヴァイオリンを取り出し、「あれをやろうぜ」とクリックボームに声をかける。「待ってました。」と一同。グラナドスがピアノ伴奏をかって出る。

おどけた仕種で、2人が「鳥のふん」を弾き始める。

毎年夏のサン・セバスチャンのカジノの夜は、そのように更けていったのかもしれない。

アッコーライは誰か?(20)−クリックボームとサラサーテ 

サラサーテがパーティーピースとして好んで演奏した“Guano”。

この曲がアッコーライによって作曲されたのは1892年とされる。

その頃、クリックボームはスペインとの関わりを深め、1895年にはバルセロナに移住している。

従来、根拠が今一つ不確かな「ヴュータン=アッコーライ」説が信じられてきたが、ヴュータンと同じヴェルヴィエ出身で、後のブリュッセル音楽院教授という立場も同じクリックボームこそが、実はアッコーライだったのではないか?

クリックボームの生没年は1871〜1947年である。アッコーライのイ短調協奏曲の作曲年が1868年という点では辻褄が合わないようであるが、この曲の楽譜の出版年から言って、作曲年が1890〜1900年代初頭であったとしても不自然ではない。

当時クリックボームは、グラナドスやカザルスと共にスペイン各地で演奏活動を行っていた。すでにスペイン人ヴィルトゥオーゾとして著名だったサラサーテとの間に何らかの接点はなかったのだろうか。

カザルスは回想記の中で、ある事実にふれている。

アッコーライは誰か?(19)−クリックボームとスペインの音楽家 


マシュー・クリックボームはバルセロナに移住した直後から、スペイン人音楽家たちと数々の室内楽コンサートを行った。

当時30歳だった作曲家・ピアニストのエンリケ・グラナドス(1867〜1916年)とのデュオ、20歳のパブロ・カザルスを加えたトリオ。クリックボームがイサーク・アルベニス(1860〜1909年)を「最良の室内楽ピアニスト」と称える手紙を書いたのもこの頃だ。これら後に偉大な足跡を残す若きスペイン人音楽家達と盛んに交流していた様子が窺える。

クリックボームはヴァイオリン学校を主宰しながら、1897年にバルセロナに「フィルハーモニック・ソサエティ」を設立した。バルセロナにおける室内楽の振興を目的としたこの「ソサエティ」を根拠地に、彼は数多くの演奏会を催した。同年には、第1ヴァイオリン:クリックボーム、第2ヴァイオリン:ジョセフ・ロカブルナ、ヴィオラ:ラファエル・ガルベス、チェロ:パブロ・カザルスで「クリックボーム弦楽四重奏団」を結成。グラナドスが1904年までに、この「ソサエティ」で25回の公演を行ったという記録もある。

その頃、アッコーライ作の「Guano」を好んで演奏したというパブロ・デ・サラサーテは50歳になっていた。活躍の舞台は世界中に広がり、すでにヴァイオリニスト・作曲家としての地位と名声を不動のものとしていた。

クリックボームが残した数少ない足跡には、そんなサラサーテとの共演はもちろん、2人の直接の交流を示す事実を発見することはできないが、「クリックボーム弦楽四重奏団」のメンバーであったカザルスはサラサーテのことをよく知っており、その風貌やユニークな振る舞いについて、後の回想録で詳しく描写している。


アッコーライは誰か?(18)−バルセロナのベルギー人ヴァイオリニスト 


パブロ・カザルスの他にも、後に世界的な名声を獲得するスペイン人演奏家や作曲家が修業の日々を送っていた町、バルセロナ。

ベルギー人の彼も、芸術的な創造と刺激に満ちたこの町で、夢を紡いだ演奏家のひとりであった。

彼の名は、マシュー・クリックボーム(1871〜1947年)。ウジェーヌ・イザイの高弟で、「イザイ弦楽四重奏団」のセカンドヴァイオリンを1899年まで務めた。(その後は、バルセロナでの活動が本格化したため、退団している。) イザイ:無伴奏ヴァイオリンソナタの第5番はクリックボームに献呈されたものだ。

クリックボームは演奏活動と並行し、ヴァイオリンの指導と奏法研究に取り組んだ。ベルギー帰国後はブリュッセル音楽院で教鞭を執り、1920〜30年代に数多くのヴァイオリン曲の楽譜校訂を行った。

1930年ショット版のアッコーライ:協奏曲イ短調の校訂は彼の手によるものである。

クリックボームの生れ故郷は、ベルギーのヴェルヴィエである。

ヴュータンと同じ、水の都ヴェルヴィエ出身の彼が、スペイン・バルセロナに渡って、当地の音楽家たちと親交を結ぶ。

当時、まさに全盛期にあったスペイン人ヴィルトゥオーゾ、サラサーテ。そのお気に入りのパーティーピースが、アッコーライの曲であったという事実。

そして、クリックボームはアッコーライの協奏曲の楽譜校訂を行っていた・・・

今まで当て所もなく手繰り寄せていた追想の糸の幾本かが、クリックボームというヴァイオリニストの周辺で繋がりを見せ始めた。


アッコーライは誰か?(17)−バルセロナ、夢紡ぐ町 

スペイン、バルセロナ。

カタルーニャ地方の伝統的な自治の精神が息づく町。

19世紀末、そこでは多くの芸術家や音楽家の卵たちがそれぞれの夢を紡いでいた。

1895年、14歳のパブロ・ピカソはバルセロナの美術学校に入学した。以降10年間、この町とパリを行き来しつつ、画家としての基盤を固めていった。創造力と思想のカオスが独自の作品宇宙に結実するとば口に立っていたピカソ。ほどなくして彼の前に「青の時代」が開けてくる。

「カサ・ビセンス」、「グエル邸」、「テレサ学園」・・・今や世界遺産に登録されたこれら独創的な建造物が、バルセロナの街角に次々と出現したのもこの時代だ。構造的合理性と生物学的装飾性とを有機的に結び付けた斬新なデザイン。アントニオ・ガウディの紡いだ夢は、19世紀末から現在、そして未来のバルセロナへと連綿と受け継がれていく。1882年から建築の始まったサグラダ・ファミリアの完成予定は2026年。

パブロ・カザルスが、バルセロナの楽器店でバッハ:無伴奏チェロ組曲の楽譜を発見したのは13歳、1890年のことだ。それまで練習曲としての位置付けしかなかったこの曲の真の芸術的価値を知って驚いたカザルスは、バッハ研究に熱心に打ち込む。一方で彼は、この頃からすでに伝統的なチェロ奏法に疑問を感じ始めていた。後に「弓の王」と呼ばれたこの20世紀最大のチェロ奏者の青春を育んだ町、バルセロナ。

1895年、そんなバルセロナにひとりのベルギー人ヴァイオリニストが移り住んだ。

24歳だった。