「招き neko」プロジェクト(54)−F.P.ツィンマーマンのブレスは「鯨の息」 

<<「自然に」は演奏家にとって究極の目標でしょう。ただし、それはあくまで音楽に沿っての話です。

演奏家がステージで弾くクラシック音楽は自然に生まれたものではなく、作曲家がそれぞれの才能の限りを尽くして人工的に作り上げたものなのですから。これをいかに自分のものとして自然に弾くことができるか、で皆悩むわけですし、そこに「共感」という言葉が入ってくるのです。

演奏家は自分の体を通して音楽を聴衆に伝えるわけで、机の上で楽譜をいじっているだけではすみません。しかし、和声・リズム・フレージングをいくら教えても、あるいは自分で頭ではわかっているつもりでいても身体がそう動いてくれない、ということはないでしょうか。

たとえば楽節のなかで休符が出てくるとその度につい無意識的に休んでしまう、ロングトーンで歌っていくフレーズで、弓を返すたびに音が切れる、それを何とかしようとして一音一音中ぶくらみの音を出して歌った、と勘違いしている等等。

そうした場合、頭と身体あるいは心を結びつける対処法のひとつが呼吸なのです。

作曲家が書いた音楽の時間を共に呼吸することによって共有する、確かに今まで呼吸のことなど考えたことのない人間にとっては「特別な訓練」なのかもしれませんが、専門家としての勉強をするのであれば避けては通れない、あるいは当然の訓練だと捉えています。

専門家の間で常に評価の高いF.P.ツィンマーマン(彼に比べればヴァンゲーロフは児戯にも等しい、と評されています)の演奏を間近で見る機会がありましたが、シューマン、ブラームス、ベートーヴェンなど非常に長い呼気をとっており、間のブレスはまさに鯨の息のような音がしていました。

勿論、前回書いたとおり息が続かない人間に何が何でもフレーズを守れ、と強要することは不可能です。特に子供はまだ身体が出来上がっていませんから、「本来切るべきではないが、他に適当な場所が見つからないから次善の策としてここでブレスをとろう」と指導します。

また、弾きながら十分な腹式呼吸をする感覚を掴むまでにはそれなりの時間を要します。せっかく取得したテクニック、ボウイングが乱れることもあるでしょう。

その時に指導者も保護者も「そういうものだ」と心得てゆったり構えてあげてください。一番狼狽し混乱しているのは子供です。

次のステップに進む為に必要なことで、慣れれば必ず前よりずっとよくなる、と励ましながら習慣となるまで根気よく続けることが大切です。>>

(「自然に」ということ 2002/10/25 0:47)

「招き neko」プロジェクト(53)−毎コンなどでも「息苦しく感じる演奏」が多いのは・・・ 

生きるためには呼吸をしなければならない。

が、曲の中で生きるヴァイオリン奏者は、生体のメカニズムとは別に、曲のために呼吸をしなければならない。

呼吸の場所を、曲想に合わせて配置しなければならない。

「妻への愛」に続き、全投稿の中でもとりわけ貴重な2編。

<<4小節・4小節・8小節のルールは例外も多々ありますがフレージングの公式とも呼べる大原則です。これを頭ではわかっているようでいて実行できない為に曲が細切れになってしまうのです。これをいつ教えるか。

子供に教える場合、考慮しなければならないのは身体的な条件が整ったかどうか、平たく言えば息が取れるかどうかです。小さい子の場合、極端に言えば一弓ごとに吸う・吐く、を繰り返しています。

そこで弓の返しで音が切れないように集中させることを教えると、今度は息を止めてしまいます。息継ぎを教えても、殆どは息を吸ったまま吐くことをせず、死にそうになりながらとりあえず息の続く限りは弾く、適当なところであわてて吸う、しかし肺に残った空気を吐いていないから浅くしか吸えない、フレーズがどんどん細切れになる、このために毎コンなどでも息苦しく感じる演奏が多いのです。

ソルフェージュを習っていれば、実際に歌わせますから吸う・吐く、のコツは飲み込めそうに思うでしょうが、いざ弾きながら音楽にあわせて瞬間的に吸う・長い息を吐いていくのは相当の訓練を要します。コンクールばかり追いかけるのではなく、腰を据えて取り組む必要がある、というのはここのところです。

まず、「生きるためにする呼吸」と「音楽の為の呼吸」ははっきり区別させます。

音楽が始まったら終わるまで、呼吸は徹頭徹尾曲の為にしなければなりません。曲の始まりでとりあえず目一杯息を取るのは小学生のやることです。pで始まるのか、fで始まるのかで息の取り方も違います。また、モーツアルトのようなフレージングの終わりが始まりでもあるような場合は、忠実に息をとっていたのでは酸欠で死んでしまいますから途中のどこでブレスを取るか考えなくてはなりません。

ですから、曲を手にしたら形式、曲想記号などを考えながら速い息、遅い息、深い息、浅い息の配置を検討する必要があります。「どうもこの曲は合わない」という場合は、曲にあったブレスが取れていないことが多いのです。

また、短く吸い長々と吐き出すには肩を上げる胸式呼吸では不十分です。トレーニングのひとつにうつぶせに寝て顔を横に向け、3秒以内で吸い、20秒くらいで吐き出す方法があります。吸ったときに瞬時におなかの部分が床を押す感覚が感じ取られるかどうか。これは腹筋の強化にも繋がります。

長い息を吐きながらの演奏は脱力にもつながります。「音楽の為の呼吸」ができるようになると、それまでいくらやかましく言っても抜けなかった力が抜け、明らかに音が変わってきます。勿論、そこに至るまでには腕の筋肉、腹筋・背筋のトレーニングをエチュードと平行して行なっておくことが必要ですが。

演奏がただ頭で考えているだけでは駄目で全身を使う行為であることを再認識させられます。>>

(フレージングとブレス 2002/10/18 1:00)

「招き neko」プロジェクト(52)−「続・妻には愛を」 

<<男親は社会で働いていますから取引先を含め全方向から厳しく批判されたり評価されたりしています。つまり、もまれ慣れていると同時に評価もしてもらえる、しかし親業は、特に「音楽をやる子の親」業は演奏家だろうと音楽教師だろうと皆素人です。その渦中にいる母親が「金切り声」をあげたり一見些細なことに取り乱すのは、慣れないからです。

慣れないながら子どものヴァイオリンは5年も続いている。昔に比べれば上手になってきた。自分も子供も誉めてやりたいが先生は「これからが本番」と要求がきつくなる、あるいは更に音高向けの先生にかわってレッスンのやり方もすっかり変わってしまった。これから先どうしよう、もう既に自分の手には負えなくなっているのじゃないか?たとえ先生から「もうなるべくひとりで練習させてください」と言われないまでも小学校高学年になればそんな思いも胸をよぎります。

「ついて来ないで下さい」と言われれば泣く泣く踏ん切りもつきますが、そうでなければ「上手くいかなければ自分の責任」の思い込みから抜けにくいのです。教師の側としては、ここまでくれば黙って見ていて時々生徒の様子を知らせる程度のつかず離れずのフォローが欲しいのですが、その阿吽の呼吸はなかなか難しいのかもしれません。

だからこそ「妻には愛を」と言うのです。

5年もかけてここまで続けさせてきた妻を「金切り声」と批判するのではなく、「母さんが頑張ったからこんなにいい音になったんだよねえ」とその労をねぎらってあげてください。子どもを誉めるなら「お前も母さんのしごきに耐えて頑張ったから」とユーモアにくるんで二人一緒に誉めてください。

遅かれ早かれ子どもは母親の下から離れて教師の音楽と一対一で向き合うことになります。その闘いを経て自分の音楽を確立していくわけで、その大事な時期に背後で親同士が無視、あるいは批判しあっていていいわけがありません。「自分が音楽をやっているせいで、家庭が暗い。だからやめます」と言われるほど悲しいことはありません。

妻が愚痴をこぼしたら正論で対抗せずに聞いてあげてください。呑気・楽天家を装ってなだめてあげてください。「まあ、おいしいものでも食べに行こうや」と二人で外食でもしてください。そうやって信頼関係ができればこそ、さりげないひと言も妻の耳に入り、徐々に気持ちも切り替えていけるものです。

ある父親は発表会だかコンクール終了後の祝いの席で開口一番、子どもを誉めるより先に「母さんにお礼は言ったのか」と訊いたそうです。母親は思いがけない言葉にうろたえて、「それは○○ちゃんが頑張ったから。お父さんにも迷惑かけたわね」

生徒はあとで「なんだか母とふたりでうろうろしちゃいました」と言っていましたが、なかなかできないことでしょう。

惜しみなく楽器に金をかける父親、ピアノの伴奏をしてもらえる父親、コンサートやオペラに連れて行ってくれる父親のどれよりも、これまで毎日地道な世話をしてきた母親を理解し認めてくれる父親の姿勢こそが不可欠です。

格好悪くても地道な努力を見ていてくれる家族がいる、その思いがこれからの子どもの長い道のりを支える糧となるからです。>>

(続・妻には愛を 2002/10/ 5 2:28)

「招き neko」プロジェクト(51)−「妻には愛を」。おけいこニストのすべてのお父さん、必読の名言! 

投稿時、多くの共感を呼んだ、「妻には愛を」。涙を流した人もいた。

子供に毎日、直接向き合う母と、距離を置く父と。

あらためて、すべてのお父さんに読んで頂きたい。

<<これは冗談ではありません。

殆どの家庭では、自宅練習をさせているのは母親です。週1回レッスンに連れてくるのも母親が殆どです。父親と顔を合わせるのは発表会やコンクールで年に1度あるかないかです。なかにはピアノやチェロが弾ける父親もいて、伴奏をしてもらったり合奏をしたりとうまく父親を参加させているお母さんもいますが、大概はレッスン代や楽器を買うとき以外は蚊帳の外です。

仕事から帰ってくると練習は終わっている。土日にはゆっくり休みたいのだが、妻は「練習に休みなんてないのよ」と言って騒音公害が始まる。ワールドカップも練習の邪魔だと居間から追い立てられてゆっくり見せてもらえなかった。聞き耳を立ててみれば聞くに堪えない罵詈雑言でもっと冷静に出来ないものか。あれでは子どもが反抗して練習しなくなっても当たり前だ、自分ならもっと上手くやるのに。しかし下手に首を突っ込んで妻ともめても面倒だ。「そんなに言うならあなたやってよ」と押し付けられてもそんな時間は取れないし。

これが大抵の父親の心情ではないでしょうか。

ただし、ここで押さえて欲しいのは妻の境遇です。男親のほうが冷静、というのは必ずしも当てはまりません。「頑張れがんばれ」「お前より上手い奴はいないんだから」で子どもをつぶしてしまった父親は何人もいます。

母親がのめり込むのは毎日毎日時間と労力を注いでいるからで、父親が冷静でいられるのはその渦中から距離を置いているからです。所詮は他人事なわけで、だからこそ冷静な判断も下せるのです。

しかし、「自分は冷静だ」と誇示するあまり、母親の心情も考えずにただ批判する、あるいは「母さんは行き過ぎだよなあ」と無意識のうちに子どもの機嫌を取っている、そんなことはないでしょうか。

母親は毎週レッスンで子どもが叱られるのを目の前で見ています。小さいうちは熱を出したり学校行事で一日弾けなければはらはらし、注意をメモして帰り、漏れがないように毎日なんとか練習させて連れて行けば、反対のことを言われたり、「だってママが」「弾くのはママじゃなくて君だろう」などど顔から火の出るような思いもします。上手くいけば子どもにお褒めの言葉がありますが、「お母さん、よくやりましたね」とは言って貰えません。(これは熱心な母親ほどのめり込むので言えないことが多いのです)

時には「お母さん、あまりうるさく口出ししないで下さい」と宣言され、「ここまでになったのは私が毎日頑張ったからなのに」と人格を否定されたような思いにかられます。

掲示板に来てみれば正論を並べられ「金切り声」と揶揄されて「好きで金切り声を出しているわけじゃない。他にだれがやってくれるの?夫は手を汚さずにきれい事を言うだけ。先生は他に上手い生徒さんが一杯いてうちの子をどこまで評価してくださってるのか。誰も私の気持ちなんかわかってくれない」と孤独感に悩みます。(⇒続く) >>

(妻には愛を 2002/10/ 5 1:31)

「招き neko」プロジェクト(50)−「常に上手い」ことの功罪 

<<いわゆる「音教」に所属する生徒と保護者、特に成績優秀者の親子が陥りやすい罠があります。

子供が大体上位○人の中に入っている。

低学年の頃から「あの子は上手い」という評判が確立していて演奏会などにも選抜されてソロで弾く。模範演奏などの機会も多い。

すると親も子も心のどこかで自分(の子)は上手い、常に上手く弾けて当然だという確固たる信念が生まれます。口では「いやいや、そんな、まだまだです。」とか「今日はちょっと失敗しちゃって」と言いつつ、心底は「誰よりも上手いのだ」と思っています。

それが中学生くらいになると、「もう自分は何でも弾けるのに、何で皆と同じプログラムをこなさなくてはならない?」とか「嫌な曲は弾きたくない」と思うようになります。地道な練習はしなくなる、もともと器用ですから短時間でなんとか曲を纏め上げる、それで試験もこなして「ほら、何とかなってるじゃないか」と居直る。

それでコンクールに入ったりしながら音高に合格した途端、伸びなくなる。早い子ではこれが中2・中3でやってきます。ただ本人も周りもそれまでのイメージが払拭できずに気付くのが遅れるのです。あるいは「音教」というごく狭い世界に慣れきってしまった結果かもしれません。

指導する側にとって「音教」は学年が上がるにつれて非常にやりにくくなるシステムです。

成長期でフルサイズに変えたら一度は必ず徹底的に左手右手を作り変えなければならないのに、親も子もそれまでの評判を落としたくないので抵抗する。次々と実技試験もあるのに今更そんな単純作業に時間が割けるか、というわけです。

また加えて、碌にものを知らない人間(嘆かわしいことに若手教師のこともあります)が「あれで本当に演奏会でソロで弾いたの?酷い出来」などと茶々を入れる。そんなことを言われたら、「こいつは音楽のことなど何も知らないのだな、そんな耳では・・・」と内心で笑って済ませばいいのですが、保護者も人間ですから自分の子供が虚仮にされたと怒り心頭、「先生の詰めが甘いから」と恨まれたりする。

受験もあるし仕方ない、音高に入ってからやり直そう、と予定を変更しますが中学生なら1年で済むものが3年たってもなおらないケースはよくあります。

「音教」を例に取りましたが、これは毎年課題曲を仕上げることに忙しいコンクール常連者の親と子にも当てはまることです。親の役割は目先の結果を追い求めるのではなくて、数年先を見据えながら、いわれのない誹謗中傷から子供を守ることです。周囲の雑音にうろたえる心情はわかりますが、一番心が揺れるのは子供です。ぐっとこらえてここ一番の足固めができるように舵取りをしてあげて欲しいものです。 >>

(「常に上手い」ことの功罪 2002/10/ 1 1:45 )

「招き neko」プロジェクト(49)−海外の講習、通訳付きでない場合は 

<<一度も海外に出たことのない子が希望の講師を決めてフランスの夏期講習に臨んだケースですが、前もって先方と連絡をとり個別レッスンのみ、パリから参加する学生に頼んで通訳をしてもらっていました。現在、どの夏期講習に行っても必ず何人かの日本人に会いますから、師事している先生を通じて依頼してみてください。

「面倒見のいい○○が××の講習に行くと言ってたから相乗りで頼んでみよう」というのはよくあります。あるいは同期の○○が現地にいるから聞いてみる、等々。留学生はみなそうやって面倒を見てもらいつつ海外生活に慣れていくわけです。ここのところを、将来ものになるかも分からないから、と変に遠慮しているとそのあとの展開が開けていきません。

ただ、帰国子女でない限り、高校生くらいまでは語学力に関しては皆同じようなものです。むしろ初めての外国人講師の前でパニックに陥ってしまうかどうかが分かれ目です。音楽に集中できる子は講師が様子を見ていて通訳に「この子は分かっているから訳さなくてもいい」と言うケースもあります。本人の性格によってはまず来日中の人間を紹介してもらってレッスンを受けてみるのも良いでしょう。

日本にいると、とかくパンフレットに書いてあるとおりのことしか出来ないと思いがちですが、つてを頼れば色々と融通が利くものです。ですからなおさら現在師事している先生に隠すことなく何でも相談してみてください。>>

(通訳つき講習 2002/ 9/29 1:11 )

「招き neko」プロジェクト(48)−留学を考える上で重要なこと 

<<中・高で受け入れてくれる音楽学校は多いですし、レベルも様々です。文面からはお子さんの師事したい先生が決まっているかどうか分からないのですが、審査テープを送るとまず主任教授から聴いて「要らない」と判断されるとだれか引き受け手が見つかるまで順番に下げ渡されていく学校も少なくありません。アシスタントクラスになると、肝心の先生が首になる⇒次の受け皿探しに苦労するケースもあります。指導者の生存競争も厳しいのです。

とくにEU統合後、移動はヨーロッパ全土で起こりつつあり、またロシアから安定した環境を求めて生徒が家族ぐるみで移動してきています。日本人以上に語学が出来ない子もいますが、生活がかかっていますから非常に貪欲です。

ですから一番肝心なのは本人の強い意志です。師弟間に問題がないのであれば、親御さんが「恥ずかしくて相談できない」というのではなく、本人から先生にじかに相談できるだけの意志があるか、向こうで何を学びたいのか、それは日本での公開レッスンや現地での夏期講習では学べないものなのか?(いきなり留学は無謀です。まず公開レッスンや夏期講習に出て先生を見つけてください。また、留学となれば通訳はつかないことも自覚させてください)最低限これが話せなければ留学しても食い物にされるだけです。

しっかりした指導者なら本人の能力・可能性などを考慮した上でその希望を上手く向上心につなげてくれるはずです。

勿論、どちらかの音教に所属されているのですから相談相手には事欠かないと思いますが、個人的には留学の前提として「曲のアナリーゼが自力で出来、ある程度そのアイディアを音で表せること」と考えています。それも近代はまあ大目に見るとして、バロック・古典・ロマン派の音楽語彙上の差異を理解し表現できること、この土台がないと日本にいたほうがよかった、という事態になりかねません。日本はまだ弦に関しては競争力がありますから。

ちなみにchimera nmさんは鍵盤・「音大を見切る云々」にハンドル名を変えて書き込みをされていたようです。>>

(留学の件 2002/ 9/26 1:34)

ピアノでは、例えばこんな国際コンクールがある。

NHK教育「スーパーピアノレッスン」、映画「神童」でお馴染みの、若年留学の俊英らも入賞者リストに名を連ねている。

日本はもとより、最近は中国、韓国からも。

幼少期からの渡欧が増加しているのだろうか。

「招き neko」プロジェクト(47)−「鬼門」のモーツァルトを巡る幾人かの先生の会話 

<<日コン予選開始、1次の課題曲のひとつにモーツァルトのロンドが入っていますが、優秀な教師ほど頭を抱えています。

「こういう感じで〜と弾く癖が抜けない」

「モーツァルトはバロックともロマン派とも違う。パーツごとにレッスンしているときは、あ、分かったのかな、と思うんだけれども全部通して弾かせると綺麗に落ちてるんだよねえ」

「のめり込むと際限がないんだよね、モーツァルトは。とくにあのロンド、難しい難しい。まず最初がさ」

「そんな、わからない子にはそこまで突っ込んで教えることないわよ。だって、かえって可哀想じゃないの。混乱して弾けなくなるのがオチだから私は教えない。あれは積み重ねがものを言うんだもの」

「口当たりがいいからねえ。どうしても全部通すと流れちゃうんだよね。日コン課題曲になったからってそれから準備しても駄目」

「面倒くさくても、やっぱり小さいときから一項目づつ身体に染み付かせるようにして教えないと身に付かないもんだよ。バッハなんかは本人が分析のおもしろさに目覚めるといい線まで行くけど」

「それはお宅んとこはもともとテクニックがあるから。全部中途半端だと本人も不安でついつい余計な色付けに走るのよね」

「まあ、モーツァルトが分かってなくたってロマン派で聴かせられればプロとしてはいいようなものだけど、これはコンクールだから」

「さすが日コン、というか」

「だからさ、やっぱり感情に走るな、と言いたいね、僕は。ロマン派は感情に走ってもそこそこはまるけれど、そこで止まっちゃう」

「いつまでも若くないからね。ブラームスなんか感情に走って弾いてどうするんだって。雨の歌なんてその無残な例だよね、試験で弾かせりゃ死屍累々」

「だから結局は小さい頃からの教養なんだと思うわよ、広い意味での。親も子もせいぜい作曲家の伝記読んでCD聞いて業界の噂話して終わってるじゃない。そうかと思うと色恋しないと音楽が出来ないなんて馬鹿言って」

「そんなやわなもんじゃないんだよね、西洋音楽は」

「だけど週一1時間のレッスンでは時間が足りなくてなかなかそこまで教えきれない」

「いいのよ。生徒全部がそんなに優秀だったらこっちが精根尽き果てて死んじゃう」

「でもせっかくの機会だからさ。モーツァルトを通して音楽の怖さの端っこでも味わってもらいたいね」

「そう、モーツァルトには苦労するだけの価値がある」 >>

(日コン鬼門のモーツァルト「ロンド」 2002/ 9/17 1:44)

こういう乗りの対話形式だと、イグラーユとしては思わず、「内緒の話−between you and me 」のエントリーに加えたい誘惑に駆られるのであるが、こちらは恐らくフィクションではなく、先生同士で実際に交わされた会話である可能性が高い。