「諏訪根自子」という意志 

1939年(昭和14年)9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発した。

藤田嗣治は中南米旅行を経て、1933年から1939年まで日本に帰国・滞在し、その後フランスに戻ってきていた。ところがドイツ軍のフランスへの侵攻が現実のものとなる情勢下、欧州の在留邦人は日本への帰国を急ぐこととなった。

パリ画壇の寵児として人気を博し、フランス社会に根付き、ほとんどフランス人と言ってもいい藤田嗣治であったが、1940年5月に再度日本への帰国を決意することになる。同年6月には岡本太郎や荻須高徳らも日本に帰国した。

1940年6月14日、ドイツ軍はパリを占領した。戦雲急を告げれば、欧州と日本間の船の航行にも当然危険が及ぶ。在留邦人にとっては機会を逃せば、永遠に日本に帰国できないかもしれないという不安は尋常ではなかったであろう。

原智恵子も前述のようにこの年、日本に引き揚げてきていた。また、10歳でパリ高等音楽院に留学していたピアノの安川(草間)加寿子もこの年に日本に帰国していた。

多くの邦人が帰国の途につく中、当時、バリ留学中のヴァイオリニスト諏訪根自子(すわ・ねじこ)は、しかし、次のような強い思いを抱いていた。

「どうしても欧州に残り、音楽修行を成就したい。」(深田祐介著『美貌なれ昭和』(文藝春秋)より)

諏訪根自子は1936年(昭和11年)に文部省の派遣留学生としてベルギーのブリュッセルに渡り、当地の宮廷音楽師であったショーモンに師事。2年後、パリに居を移し、ロシア人のカメンスキーに師事し、1939年にパリでリサイタル・デビューを飾った。

1942年末にはドイツに赴き、精力的に各地で演奏会を行った。クナッパーブッシュ指揮のベルリン・フィル、ワイスバッハ指揮のウィーン・フィルとも共演している。

1944年6月、連合軍がノルマンディに上陸し、ドイツの防衛ラインは完全に崩れた。敗走するドイツ軍と軌を一にするように、同年8月、パリ解放の13日前に、諏訪はパリからベルリンへの逃避行を敢行することになる。

列車での移動中に何度も空襲を受けたが、1943年にドイツ宣伝相のゲッペルスから贈呈されていた1722年製作のストラディヴァリウスだけは片時も我が身から離さず、命からがらベルリンに入ったという。

すでにその頃のベルリンは連合軍の連日の空襲下にあり、ただでさえ危険な状況であった。しかしそのような中でも、スイスの日本大使館員のはからいでスイス各地でのリサイタルが企画されると、ベルリンからスイスまで危険を省みずに移動し、リサイタルを敢行。スイスの各新聞紙上でその演奏を絶賛された。

まさに、「騒然たる時世に刃向うように根自子の音楽への意志は昂揚する」(同書より)のであった。

1945年ベルリン陥落後は、大島駐独大使らと共に連合軍に囚われ、アメリカ本土の収容所に収容された。そして終戦後の1946年、日本に帰国。

想像を絶する苦難の内に、諏訪の10年にわたるヨーロッパ留学は幕を閉じたのである。

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